アラゴンの人となり ──最初のソヴィエト訪問(上)

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 最初のソヴィエト訪問

 一九三〇年の秋、エルザとアラゴンはソヴィエトを訪問する。建設途上の社会主義の国を、まのあたり自分の眼で見るためである。かれらはゲンドリコフ通り(1)のマヤコフスキー博物館を訪れて、深い感慨におそわれる。マヤコフスキーは、その五ヵ月前に自殺していたのである。アラゴンはまた、ドニエプルの大水力発電所の工事現場を訪れ、そこで働く何千という青年男女の労働をまのあたりに見て、衝撃にもちかい感動を受け、それはかれの人生の決定的な転換点ともなる。それらの感慨と感動は後年、つぎの詩に歌われることになる。

  ゲンドリコフ通りの 客間のテーブルをかこんで
  私たちは いっしょに腰をおろしていた
  まるで いまにも扉口があいて あの大男が
  窓に射す陽のように ぱっと現われそうだった

  五ヵ月たてば もうやすやすと彼の死にも慣れてしまう
  彼の声が聞けなくなると すぐに過去形で彼のことを話すのだ
  きみにまつわりつく彼は もう観念であり 記憶の仕業(しわざ)なのだ
  だが 隣り部屋の 洋服だんすの扉があいていて
  彼のネクタイが 二つ折れに ぶら下っているのを見ると
  誰でもふと マヤコフスキーがうしろを通るような気がするのだ

  彼はそこで 煙草をふかして トランプ遊びをしている
  彼の詩が どこか上着のポケットで歌っている
  彼はちょっと伸びをする それをきみは転地旅行と呼んだものだ
  彼のような肩なら 地平も軽がると持ちあがる
  彼の詩が船出の支度をするには 海のひろさが必要だ
  耳にひびく脚韻のために 彼には車とレールが必要だ
  だが そんなことを言ってみても いまではもうむだなのだ

  彼は言ったものだ 明日(あす)どこかわからないが 出かけるよ
  パリか パミールか それともペルーか ペルシャへ
  彼には 世界は玉突き台だ 頭のなかの赤玉の言葉が
  緑いろの絨毯(じゅうたん)の上をころがって とつぜんキャノンするのだ

  ああ 彼はほんとに行ってしまった そのわけは永遠にわからぬだろう
  そのわけを訊(たず)ねるのは ほんとに彼を愛していた人たちにとってむごかろう
  あんなに何度も 彼は地獄から抜けでてみせると約束した
  それは暗喩だったようだ 少くとも奇妙なことだった
  いまそれを読みかえすと 心はひっくりかえるようだ
  いつか 彼がもどってきたら きみはどうか黙っていてくれ おねがいだ
  ネバ河は もうこの世捨て人を放すまいと 彼をその氷のなかに閉じこめる
  彼はもう銅像でしかない 通りの名 広場の名でしかない
  したしげに鳥が飛んできて その腕のうえで羽根をやすめる
  青銅(ブロンズ)の服のなかで ふるえおののくのは もう風だけなの
  わたしはいつも思い浮べるだろう 一九三○年のモストルグ(2)を
  照明の暗い大きなホール 売ってるものとては ほとんど何もない
  カウンターには人影もなく 隅の方に わずかばかりの商品があるばかり
  靄(もや)のような人群れが それを遠くから眺めて満足している
  「未来は みんなの貧困にうち勝つのだ」と書いた
  白文字が赤い布に浮いている 吹き流しのしたで
  田舎から出てきた おのぼりさんの農民や 値段をたずねる女たち
  奥の方で 宝石屋が ほの暗い光りを放っていた
  五本ばかりの金の匙を 蒼白い店員が見守っていた
  そうして雪は地上に もの悲しげな汚れた足跡を幾すじも浮き立たせていた
  
  わたしは知っている 塗りかえられたこともない壁の中の すし詰めの暮らしを
  わたしは知っている 見つけたひと切れのパンを わかちあい
  飢えをわかちあい 部屋をわかちあった生活を 息づまるような ひどい廊下を
  南京虫や 衝立(ついたて)や 叫び声や もろもろの悪(わる)だくみを
  わたしは知っている 一本のピンが宝だったような
  数年もつづいた ひどい物資の欠乏を そうして浮浪児たちを
  タ方疲れた まっ黒な人たちが 電車の昇降口にまで溢れて
  恐ろしいけんまくで みんなが殺気立っていた
  そうして冬なのに 腐ったキャベツの悪臭の中を 穴のあいた靴で歩きまわり
  人びとは ゴムの上靴を買おうとして 口ぎたなく値ぎっていた

  そういう時だったのだ マヤコフスキーがぱっと光りを投げたのは
  どうしてそんな蜃気楼がつくり出されたか わたしにはちっとも分らないが
  はじめてわたしは 自分に注がれた人間らしい眼を感じとり
  見知らぬ人たちが 路傍のわたしに投げてくれた言葉をきいて身ぶるいした
  まるで 肉体的な啓示が わたしに与えられたかのように
  ある日 音楽とはどんなものかを教えられた つんぼのように
  ある日 こだまとはどんなものかを教えられた 唖(おし)のように
  わたしはくらやみから あのドフジェンコの描いた夜の光りへと変ったのだ
  わたしは思い出す 「大地」という映画を見たのも その頃だった
  月の光りが あんまり美しくて 思わず声が出てしまったものだ

  ふさふさした亜麻色(ブロンド)の髪が スカーフからはみ出て なびいていた
  河の流れと泥のなかに作られた 橋脚の台座のうえで
  大理石の色をした 背の高い娘が立ちどまって 工事場のたくさんの人たちを見て
  びっくりしている おお ドニエプローグ(3)よ 秋の雨よ
  おお 希望の巨大なダムよ だがこのダムは その後 敵を前にして
  同じ手によって たまらない苦痛と勇気をもって 爆破されるのだ
  十二年後のある夜 ニースで わたしたちはモスクワ放送をきいていた
  わたしは この思い出の その白い娘とそのまなざしを思い浮べた
  そうして あの危険な工事現場の こまごまとした部分まで思い出した
  そうして むかしを夢みながら前進する 生き残った人びとや死者たちを

  こんなつらい感情(おもい)を どんな言葉で言い現わしたらいいのだろう
  雨が降ろうと 風が吹こうと わたしがいま何ものであろうと
  何をしようと 何を言おうと この感情(おもい)はわたしの肉の中に根を下しているのだ
  世界のこっちの端(はじ)からさえ この人民を助けよ でなければ
  この人民とわれらとの連帯をも害ねることになる 気遣うがいい 夢の中でまで
  事態が重くのしかかって 人びとをストライキ破りのような行動に駆りたてている時
  そうしてわたしは見るのだ 高級な連中が令ややかにあざ笑っているのを
  彼らには建設が気に入らぬのだ そうして攻撃されるのは指導者たちだ
  しかし手に血をにじませて 石や綱やケーブルをつかんでいる人たちに
  きみたちは 何を話そうというのか お慈悲を説く先生方よ
                              (『未完の物語』)

(1)ゲンドリコフ通り──モスクワのこの通りに、マヤコフスキーは、リーリヤ・ブリックと住んでいた。いまではマヤコフスキー通りと呼ばれ、マヤコフスキー博物館がある。
(2)モストルダ──モスクワのボリショイ劇場の近くにある大百貨店。
(3)ドニエプローグ──ドニエプル水力発電所のこと。その大きなダムは、第一次五カ年計画の期間に建設を始めたが一九四一〜一九四二年、ドイツ軍が進攻してきたとき、ソ連軍によって爆破された。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

政治ポスター
マヤコフスキー「同志たちよ、労働組合活動週間に参加せよ!」(1921年)


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