アラゴンの人となり ──エルザとの出会い(上)

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アラゴンの人となり

 エルザとの出会い

     おお 狂気の頃よ 思い出よ 消えさるがいい
     そしてきみは十一月にやってきた 僅かな言葉の
     やりとりで わたしの人生はふいに向きを変えた
     クーポールの酒場での一夜
                        (『眼と記憶』)

 ドラマはつぎのように始まった。「一九二八年十一月五日、あのモンパルナスの、まるで駅のように大きなカフェのひとつで……満員の狭い酒場と騒々しい大広間とをへだてている、飾りのないマホガニーのぶらぶらした鎧戸を通っているとき、わたしは自分の名を呼ぶ外人の声をきいた。見知らぬ連中が、腰掛けのうえで、わたしをじっと見ていた。そのなかのひとりが立ち上って、わたしに言った。
 「詩人ウラジミール・マヤコフスキーが、あなたを呼んでいます。かれのテーブルに座ってくれませんか……」二十五年前に、この男がそこからやってきたあの巨大な現実について、わたしが何を知っていただろう?けんけんごうごうたる賛否両論に蔽われたその国について、ユゴーとダンテから浮かび上る夢のような国について、わたしが何を知っていただろう?その国の思想は、三十才のわたしの唇には酒のように強烈だったが、何冊かの本や絵本と「戦艦ポチョムキン」のほか、何をわたしが知っていただろう?──わたしはそのテーブルに座った。あの心のなかのロマンティスムと、パリのめまいのするような無鉄砲さとをもって。このことから、わたしの人生が根底から変ってゆくなどとは、わたしは夢にも知らなかった。──そうして翌日、混んではいたが風通しのいい同じ場所で、もうちょっと遅い時刻、とつぜん店がほとんど空(から)になる頃、わたしはエルザ・トリオレに出会った。それ以来、わたしたちはもう離れなかった……」(『ソヴィエト文学』)

 この二つの出会い──マヤコフスキーとの出会いと、エルザとの出会いとが、アラゴンの人生に決定的な影響を与えることになる。アラゴンがマヤコフスキーに初めて会ったのは、この一九二八年の末であったが、マヤコフスキーは、当時ほとんど毎年のようにパリを訪れていたのだ。マヤコフスキーのこれらのパリ滞在中、フランス語を知らぬマヤコフスキーの案内役をつとめたのがエルザであった。一九二二年九月には、フランスの芸術家たちが、マヤコフスキーを歓迎して、宴会を催している。一九二七年五月には、アンリ・バルビュスの指導する「クラルテ」のグループによるレセプションに応じて、マヤコフスキーはそこで挨拶をしている。この一九二七年の旅行ノートのなかに、マヤコフスキーはまだ会ったことのないシュルレアリストたちにふれて、こう書きとめている。「彼らのうちの多くは、共産主義者である。彼らのうちの多くは、「クラルテ」の協力者である。とりわけ、詩人であり作家であるルイ・アラゴン、ボール・エリュアール、その他の詩人たちがそうだ。奇妙なのは、この前期革命的なグループが、詩と宣言によって仕事を始め、わがロシヤにおける「左翼インテリゲンチャ」の古い冒険を復活させていることだ」
 マヤコフスキーは、ここで、シュルレアリストおよび当時のフランスの作家たちが、フランス文学の民族的伝統に十分深く結びついていない点を、主として非難しているのである。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

イストリアホテル
モンパルナスのイストリアホテル(安西良子さん撮影)

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