エルザの人となり (3)エルザはモンパルナスにおちつく

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 エルザはモンパルナスにおちつく

 ベルリンからエルザはパリにもどってくる。そのとき、かの女は故国ロシヤに帰えることもできただろうし、帰えるべきだったのかも知れない。しかし、自分がまるで楽園のようなタヒチ島で暮していた間にも、故国のひとびとが、国内戦や、飢僅や、怖るべき冬とたたかっていたことを思うと、エルザの良心はうずいて、おめおめと故国へ帰える気にはなれなかったらしい。それに、モスクワにはもうかの女の家もなかった。それに「わにしにとって、パリはもう離れがたいものとなっていた。しかも、あの頃、あちらこちらとわたしは旅行していたが、それはわたしの孤独の内部を旅行していたのに過ぎなかった」
 こうしてエルザのパリ生活が始まる。
 「パリにもどって、わたしがモンパルナスに住むようになったのは、まったく偶然であった。わたしは初め、テルス街のあるホテルに身を落ちつけたが、ある日、ホテルの女主人が、わたしの身の上を根掘り葉掘りして、もうどうにも我慢ができなかった。すると、フェルナン・レジエ(どうして彼と知りあいになったのか、わたしも思い出せない)が、ちょうどそこへやって来て、涙に泣きぬれていたわたしを、彼の住んでいるモンパルナスへ連れて行ってくれた。ホテルの肥っちょの女主人がどうして女の子をこんなひどい目に会わせたんだろう、といった彼のあっけにとられた顔を、わたしは思い出す。しかし彼は、この奇妙な出来事のわけを知ろうとはせずに、そのまま受けいれて、その場をつくろってくれたのだ。

 わたしは、カンパーニュ・プルミエル街のホテル「イストリア」に身を落ちつけた。わたしは、どうやらそこがたいへん気に入ったらしい。家は塔のように立っていて、廊下というものがなかった。狭い階段が一つと、いくつかの小さな踊り場、その小さな踊り場のうえに、五つの小さな戸口があった。すべてが、その頃としては新しく粋(いき)で、明るく、小ざっぱりとしていて、無駄というものがなかった。おのおのの部屋には、ペッド、枕頭台、硝子張りの戸棚、小さなテーブル、二つの椅子、洗面所などがついていた。壁はすみれ色と黄色の大きな縞模様で、まるで風変りな掛布団のようだった。この壁の中で、わたしは数年を幕らした……窓からは、エドガー・キネの大通りと広い空とが見え、夜にはその空をたくさんの光が流れ掠めた。わたしの持ちものといえば、タヒチ旅行に使ったトランクひとつだけであった……
 ホテル「イストリア」の頃は、わたしは若くて陽気で、言い寄る男や求婚者たちに手を焼き、無頓着で、無意識で、見たり聞いたりするものを知ろうとする子供のように、「無我夢中」に生きていた……
 「イストリア」には、マルセル・デュシャン、ジャンヌ・レジェ(フェルナンの最初の妻)、マン・レイ、ピカビァ、などが住んでいた。美女のキキが、光った鼻でやってきた……わたしは、しょっちゅうモンパルナスのカフェに行って、ロシヤ人たちと会った。すでに、イリヤ・エレンブルグは、自分のテーブルと友人と取巻き連をもっていた。わたしもまたそこに友人たちと、どれほどとも分らぬ敵をもっていた。つまり、パリ警視庁にいちいち報告を書いていた連中である……そんなことをわたしが知ったのは、数年後のことだった。警視庁にある、わたしについての調査書類は、膨大なものにちがいない。ソヴィエトと接触をもっているホテル暮らしの独身の女は、警視庁のねらう格好の餌食だった、ということに、わたしは気もつかなかった。わたしは自分がつけねらわれていることを知らなかったから、そんなことを気にもしなかったのだ」(『交錯小説全集』第一巻序文)

 こうしたパリ生活のなかで、ある日、エルザは、タキシードを着たひとりの若ものが、クローズリ・ド・リラの二階の窓から、身をのり出して、「アブド・エル・クリム万才!」とわめいている姿を見た。鉄かぶとをかむった数百人の警官が、大通りを埋めていた。アブド・エル・クリムは、当時フランスの植民地だったモロッコのリフ族の、民族解放闘争の指導者であり、それを弾圧するための、いわゆるモロッコ戦争(一九二五年)にたいして、パリの労働者たちは、ストライキによって反対していた。知識人たちも、その残虐な弾圧にたいして抗議運動を起こしていたのである。タキシードを着た若者とは、むろん若き日のアラゴンであった。それから四年後エルザは、その若者をよく知りたいと思った。窓ベで叫んでいた彼を見たからではなく、彼の書いた『パリの農夫』を読んだからだった。──『パリの農夫』を読んだとはいえ、見知らぬ者に関心を抱き、情熱を寄せるのがエルザの性格だった。
 「わたしは『パリの農夫』を読んだ。これほどわたしに近く、これほど近親で、ロシヤで言うように血縁的なものはなかったので、わたしはその作者を知りたいと思った。わたしはあなたに出会って、フランスにとどまった。一九二八年のことだった。
 わたしは、うつくしい『アニセ』を読んで、涙を流した。泣いた。しかも、この世に出ようとしていた『カムフラージュ』(エルザの小説)もまた難破の物語であり、自殺への序曲ではなかったろうか。わたしたちは出会うために熟していた」
 こうして運命は、一九二八年十一月六日クーポールの酒場で、エルザとアラゴンとを結びつける。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

ラビーニア


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