『殉難者たちの証人』

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『殉難者たちの証人』

 一九四二年の初め、パリからひとりの同志がニースにアラゴンを訪ねてきた。ジャンと名乗っていたが、それは弁護士のジォエ・ノルドマンであった。
 「ジャンは一束の書類をわたしのところに持ってきた。タイプで打った文献で、少しごちゃまぜになっていた。よくわからなかった。同じひとつの怖ろしい物語が何回となく繰り返し語られていた。それは一九四一年十月に行われた人質処刑に関するシャトーブリアンの人びとの直接の証言であった。殉難者たちの一覧表と、その役職、職業、略歴。彼らの最後の手紙、収容所の板に書きつけられた落書……この文献に短い言葉が添えてあった。『これを記念碑的文献にせよ』わたし宛ての短い言葉で、命令であった。わたしはこの筆跡に見覚えがあった……」(『共產主義的人間』1)
 その筆跡は党の指導者ジャック・デュクロのものであった。この文書類をまとめて、ひろく訴え、ひとびとに影響をあたえるには、有名な作家の方がいいと考えて、アラゴンは当時ニースのあたりに住んでいたアンドレ・ジイドとロジエ・マルタン・デュガールに頼んでみたが、二人ともこれを拒否した。そこでアラゴンはみずから筆をとることにした。こうして『殉難者の証言』が書かれた。──「恐らくこれはよく書けてはいないが、この文章を書いたことほどにわたしが誇りとするものはこの世界にない」

 「翌日、殺戮の詳細が判明した。シャトーブリアンから二キロ離れた砂採り場で、彼らは銃殺された。彼らはトラックのうえでマルセイエーズを歌いながら町を横切った。かれらの通るのを見て、人びとは帽子をぬいだ。町じゅうを覆っていた感動が想像される……。
 奇妙な細心さによって、処刑は三つのグループに分けて行われた。砂採り場には、丸太の棒抗が三列、たてられていた。処刑は三回の一斉射撃によって終った。十五時五十五分、十六時、十六時十分に。
 二十七人の受刑者は、眼かくしもせず、手も縛られずに死んでゆくことを望んだ。かれらは倒れながら死刑執行人どもを驚かせた。かれらは最後の瞬間まで歌っていた。叫んでいたのだ。『フランス万歳! ソヴエト万歳! 共産党万歳!……』金属工タンボーはかれが生涯でいつも示した豪胆さで最後の言葉をえらんだ。それはフランス人である彼を銃殺した兵隊どもの心に思い出として残らずにはいないような途方もない叫びだった。──『ドイツ共産党万歳!……』彼は勇敢に生きたように勇敢に死んだ。かれはわれらの友、フランス労働者の一典型として残るだろう……」

 一九四二年二月に書かれた『殉難者たちの証人』が流布され始めたのはやっとその年の秋になってからである。それも独特の方法でひとびとの手から手へと渡った。アラゴンは書く。
 「ひとつの思いつきが浮かんだ。どうしてこのテクストをタイプからタイプへとうって国じゅうにひろめようとしないのか。〈その後まもなく、この経験にもとづいて『星』(エトワール)というシステムが考え出された。それは無限軌道のように、くりかえし継続されるシステムで、われわれはこれを南仏三十七県の非合法活動に利用した〉。こうして最初の鎖が世に現われた。ニースを通る旅行者は直接かあるいは間接にわたしからそれを受けとるが、編集してあるおかげで、それはパリからきたものだと思いこむ。こうしてツールーズから、リヨンから、モンペリエから、それはふたたびあちらこちらの地方へと散ってゆく。それがわたしの手になったものだとは、一九四四年九月まで、だれも知らなかった。よそに回すようにと、ほうぼうからわたしのところにもどってきたほどである」(『共産主義的人間』1)
 このテクストはまた、アラゴンのかつての上官レヴィ博士の手をとおして、潜水艦で国外に持ち出され、あるいはアルゼンチンの新聞特派員によって世界に知らされた。こうしてアルジュ、ブラザーヴィル、ロンドン、ボストンなどからラジオで放送され、またパンフレットに印刷されてひろく流布された。こうしてナチスの蛮行を知って、世界世論の慣激は高まってゆく。

新日本新書『アラゴン』

シャトーブリアンからの

*犠牲者の一人ギィ・モケを主人公にした映画「シャトーブリアンからの手紙」が2011年に制作されています。(シュレンドルフ監督 仏独合作)

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