ニース滞在・マチスとの親交(下)

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 ニース滞在・マチスとの親交(下)

 パリからニースにもどったアラゴンは、海に面した合衆国海岸通り(ケ・ド・ゼタ・ズニ)の、レストラン・ポンシェットの上の小さな家に移る。その頃、ニースの上のシミィのレジナ荘に、アンリ・マチスがアトリエを構えていた。マチスはアラゴンにとって少年時代から敬愛してきた画家であった。十九歳の頃、ブルトンと共に過した陸軍軍医学校の部屋の壁を飾っていたのもマチスの複製であった。一九四一年の暮、アラゴンは何度かためらったのち、ついにマチスを訪問する。二人の交友が始まる。ときにマチスは七十二歳の巨匠であり、アラゴンは四十四歳の気鋭であった。
 そうしてこの訪問、対談、親交から、アラゴンはまず「マチスあるいは偉大さ」を書く。このエッセィは一九四一年十一月十二日の日付をもち、セゲールスの『ポエジイ四二』の第一号に、B・ダンベリュ B. d'Anbereuxのペン・ネームで発表された。それはつぎのように始まる。
 「吹き荒れた嵐が人家のうえを通り過ぎ、奇妙ながらくたの堆積(やま)を運んできた洪水が退(ひ)いていって、そこに黄色くなった古い写真や、ゆりかごや、日常の暮らしの道具類や、むかしの戦争の記念品などがごちゃまぜになっているとき、街道には避難民たちの波が、布団と恐怖をいっしょに積んだ異様な荷車をひき、悲劇的な荷物の山をかかえて流れて行ったとき、倉庫や広場や、駅や豪華なホテルや、そこらあたりの荒れはてた中庭で、空地のうえで、子どもたちが地べたに坐って、壊れた玩具をかぞえている。
 ……われわれはこの子どもたちだ。しかもわれわれが胸を締めつけられる思いで点検している神聖な残骸は、人形や鉛の兵隊たちではない。十九カ月以来、ほとんどいたるところで人びとは、いつも心にかかっている祖国の財産目録のなかに、おのれの存在理由を探しているのだ……われわれはわれわれの富、変質しないわれわれの財産、われわれの比類ない誇りの根拠をかぞえているのだ。それはわれわれの肺を洗い清めてくれる新鮮な空気であり、われわれの偉大さの感情をわれわれに返してくれるのである。
 われわれのこの財産評価にたいして、過去のあやまちや欠点や敗北を積みかさねてみても始まらないだろう。フランス絵画を前にしてわれわれが抱くこの偉大さの感情をわれわれから奪いとることはだれにもできないだろう。そして恐らくフランス絵画の到達点であり頂点であるあの作品ほどに、この偉大さの感情をわれわれに喚び起こすものはない。わたしはアンリ・マチスについて語りたいのだ……」
 この冒頭の部分は、映画「禁じられた遊び」の、悲惨な避難民の行列のシーン─そこへ容赦なくドイツ空軍の爆撃や掃射が襲いかかるシーンを思い出させる。しかしここで語られているのは、あの哀れなみなし子たちの禁じられた遊びではなくて、禁じられたフランス精神の偉大さ、ふみにじられたフランスの偉大さなのである。
 「……かつてルイ十四世の世紀があったが、いまマチスの半世紀がある。それはメトロ様式の時代、突如として印象主義を追い越し、印象主義に廃棄を通告することになるあの(野獸派)絵画の掲色(フォヴ)の輝きから始まって、描線(トレ)が歌となり、線(リーヌ)が踊りとなるようなあのデッサンへといたる。そこにわが歴史上もっとも暗黒な時代の、フランス的感性の純粋さと本質が要約されている。それは飛行機の数や戦車の速度には依存しない、あの精神の勝利である。わたしは言おう、それこそわれわれのもの、われわれだけのものだと。その高貴さを理解するのはわれわれの義務であると……」
 ここに、フランス精神の偉大さを呼びかけることによって、希望を高くかかげようとするアラゴンの高い叫びをきくことができる。
 こうして後年、マチスとの「会談、対話、夢想、歴史の出来事、マチスの足跡に生まれたもの、本、経験、展覧会など……」から『アンリ・マチス・小説(ロマン)』が書かれることになる。
(この項おわり)

新日本新書『アラゴン』

マチス・ロマン

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