ニース滞在・マチスとの親交(上)ドゥクールら五月の死者

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 ニース滞在・マチスとの親交(上)ドゥクールら五月の死者

 一九四一年六月、ジョルジュ・デュダックが地下の党の連絡をたずさえてニースのアラゴンを訪ねてくる。六月二十三日、アラゴン夫妻とデュダックはパリに向けて、被占領地帯と自由地帯との境界線を越える。ちょうどその前夜ヒットラーのソヴエト攻撃が開始されたので、警戒は厳重をきわめていた。運わるく彼らは三人ともドイツ軍のパトロール隊につかまって、ツールの騎兵隊の兵舎に拘留される。この監禁中にアラゴンは「獅子王リチャード」を書く。

  なんとこの世は わしらの閉じ込められた
  フランスは ツールの兵舎にそっくりだ
  外敵が うまごやしの牧場を踏み荒らし
  なんと きょう一日の長いことか
  ただ 時の経つのを数えていなければならぬのか
  かって憎んだことのないわしが ひとを憎み
  もうわが家は 心のなかにさえありはせぬ
  おお わしの国よ これでもわしの国なのか

 幸運にも七月十四日頃ツールの兵舎から釈放されたアラゴンとエルザはパリに潜入する。そこで作家の抵抗組識として「作家全国委員会」を創設するために、ジョルジュ・ポリッツェルやジャック・ドゥクールらと協議する。こうして「作家全国委員会」の機関紙として「レットル・フランセーズ」紙が、ポーランとドゥクールの編集のもとに発行されることになる。経験ゆたかなアラゴンとエルザの助言はその政治的方針の確立に決定的であった。重要なことは、思想の相違を強調することではなく、フランスのための協力、一致を重視することであった。
 しかし一九四二年一月、まさに創刊号の印刷中、ドゥクールは、ポリッツェル、デュダック、ソロモンとともに逮捕され、一九四二年五月、モン・ヴァレリアンでナチによって銃殺される。彼らの死の知らせがとどくと、アラゴンは「詩法」を書いて、彼らの死をいたむ。

  「五月」の死者たち わが友らのために
  いまよりは ただ かれらのために
  わたしの詩韻(うた)が武器のうえに流される
  あの涙のような魅力をもってくれるように

  ……
  わたしはうたう いつまでも
  「五月」の死者たち わが友らのなかで
                   (『原文におけるフランス語で』)

 この詩はスイスの「Curieux」誌(一九四二年八月号)に掲載されて、「自由地帯」に合法的にひろめられた。ここで歌われている「五月」の死者たちが、あのドゥクールたち一九四二年五月の死者たちであったことを知らなかった人たちには、一九四○年五月のダンケルクの死者たちを歌ったものと思われたであろう。さらにまた、それは一八七一年のパリ・コミューヌの五月の死者たちをも思い出させたであろう。
(つづく)

新日本新書『アラゴン』

*これら「五月の死者たち」の英雄的な肖像は、『殉難者たちの証人』のなかに描かれている。ドゥクールは死にのぞんで、つぎのような手紙を書き残した。「お察しのように、ぼくは、朝じぶんの身に起ることを三ヶ月前から予期していました。だから、それにたいする心がまえをする時間もあったのです。しかし、ぼくには宗教などなかったので、死についての瞑想に沈むということもなかったのです。ぼくはちょっとばかし、自分が木から落ちて腐葉土となる、一枚の木の葉のようなものだと思っています。腐葉土の質は、木の葉の質にかかっているのです。ぼくが話したいのはフランスの若者たちのことで、ぼくはかれらに希望のすべてを託しているのです」(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』東邦出版社)

空


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