アラゴンとエルザ──リヨンでの地下生活

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リヨンでの地下生活

 1941年からニースに移り、マチスと交友していたアラゴンとエルザは1942年11月、ニースを離れて地下生活に入ります。2ヶ月間ドロームの山の中の家で過ごした後、リヨンの隠れ家に1943年7月まで住み、ここで『フランスの起床ラッパ』に収められることになるいくつかの詩を書きます。

    ◇    ◇    ◇    ◇
    
 一九四二年十一月十一日、イタリア軍がニースに侵入してきたため、エルザとアラゴンは、最後の列車でニースを離れて、地下にもぐることになる。かれらはディニュで下車し、そこから自動車でアヴィニョンに行き、ピエール・セゲールスに会う。そこから、前もって借りてあったドロームの家へ行って、そこで二カ月を過す。
……
 この「天国」は、安全な隠れ家ではあっても、山の中にあったために地下活動をつづけるには不便でもあり、不可能でもあった。そこでかれらは、リヨンのモンシャにある「confluences」誌の編集者ルネ・タヴェルニェの家の屋根裏部屋を借りて住むことになる。そこに、一九四三年一月の始めから、七月末まで滞在する。この頃の思い出を、サドゥールはこう書いている。
 「わたしは連絡のためにしばしばリヨンへ行って、このモンシャの別荘の屋根裏部屋を訪れた。そこでエルザは、『白い馬』や『アヴィニョンの恋びとたち』の原稿をよんでくれた。アラゴンは、その頃マキ団(パルチザン)を組織した人たちを讃えて、『百の村の壮丁』をそこで書いた。
 リヨンの町を見おろすモンシャの小さな辻公園で、かれはわたしに、「しあわせな愛はどこにもない」を読んでくれ、それを聞いてわたしは泣いてしまった。この詩がひどく絶望的に思えて、わたしはかれに、この詩を発表しないように頼んだ。(その頼みはむだでもあり、まちがってもいた)わたしたちが、アウシュヴィッツの存在を知り、この収容所で友人のダニエル・カザノヴァとマイユ・ボリッツェルが死んだことを知ったのも、またこの町においてであった。八月の始めで、アラゴンとエルザが非合法にパリへ向って出発する時だった。列車のなかで、ルイ(アラゴン)は膝のうえで、もう書き終えたと思っていた長詩(「グレヴァン博物館」)に、つぎの八行の詩句を書き加えたのである。

 ああ 怖るべき種子まきが
 この長い夏を 血で色どる
 あまりにひどすぎる 聞けば
 ダニエルもマイユも殺(や)られたという
 
 奴らはひと切れひと切れ 切り刻むのか
 連れ去った わが優しいフランスを
 噂をきけば 悲惨なわれらの野に
 暗闇は いよいよ濃くなるばかり
           (サドゥール『アラゴン』)

 つまり、のちに『フランスの起床ラッパ』に収められる詩のいくつかが書かれ、『グレヴァン博物館』が書かれたのは、この頃である。
 ところで、このリヨンのモンシャの隠れ家も安全ではなくなったので、一九四三年七月には、ドローム県の寒村サン・ドナに移る。その頃の一枚の写真をみると、ちょうど日本の農村の、壁のはげ落ちた土蔵のような家から、アラゴンが降りてくる。下には、村の子供がなかば裸かで立っているところが写されていて、地下生活のきびしさが思いやられるのである。

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』─地下生活とグレヴァン博物館)
*「幸せな愛はどこにもない

地下生活
地下抵抗の時代のアラゴン 1944年

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