魔法の注射
大島博光
ボヘミヤン生活
〈わたしの主治医〉というテーマを与えられて、わたしは初めて自分の病歴のことなど書く機会をあたえられたということになる。
わたしは1910年に生まれた。したがって、あの15年戦争の時代に青春を過ごした世代にぞくしている。1930年代の若い頃、わたしは肋膜炎から結核にかかった。当時、結核は〈肺病〉と呼ばれ、肺病病みということばには、不治で、死にいたる病という、不吉で絶望的なひびきがあった。じじつ、たくさんの若者たちが結核のために、あたら蕾のような身で死んでいった。わたしのある友人は、柔道三段という屈強の猛者であったが、ギャロップ性の結核のために、わずか2ヵ月ぐらいの入院生活ののちに死んでしまった。
わたしはそんな病気をもちながら、毎晩酒にひたっているようなボヘミヤンの生活を10年以上もつづけていた。その間、2、3ヵ月ぐらいの静養生活を何度かくり返した。戦争中には、わたしにもいく度か召集令状がやってきたが、そのつどわたしは即日帰郷になった。やはり結核の症状がはっきり出ていたのであろう。その頃書いた詩にこんなのがある。
わが病む胸の石切場
はや截りいだす石のなく
斧の音のみ聴こゆなり
外部も内部も私にとっては絶望的だった。
戦争の終わる頃は、郷里の千曲川のほとりに帰って毎日鯉釣りをして過ごした。それがわたしの健康にとってはよかったらしい。
胸部成形手衍
こうして戦後まで生きのびたおかげで、わたしは1950年頃に胸部成形手術というのを受けるこができた、右側の肋骨を6本ほど切除された。手術は成功であったが、数年たってもなかなか気力は出て来なかった。1年の3分の2はほとんど寝ていた。〈多摩川療養所〉へ行くといって、毎日のように多摩川へ鯉釣りに出かけた。釣り気ちがいだったから、静養を口実にして行ったということにもなろう。そのためにしばしば、あいつは仮病をつかっているのだ、とも見られた。そんな釣りが10年近くもつづいたろう。だからその頃わたしは鯉釣りで人生を棒に振ったとよく自嘲するように言っていたものだ。しかし、いまにして思えば、そのおかげで長生きして、多少のところは取りもどしたとすれば、鯉釣りで人生を長びかせることができたとも言えよう
しかしまた、仮病ではなかったにもせよ、ちょっと仕事をすると、ぼおっと微熱が出てきて、仕事は進まなくなる。気管支のあたりがもやもやして、重い鈍痛を胸に感じながら、目覚めの悪い日がつづいたりした。
死を予感
そんな状態で、わたしはよく風邪をひいた。風邪をひくと、わたしはかかりつけのS先生のところへ行って、魔法の注射をしてもらうことにしていた。その注射をしてもらうと、わたしはたちまち元気になって病床から立ち上がることができるのであった。それがプドウ糖の注射だということを、その頃わたしはまだ知らなかった
S先生は、以前は九州の炭坑の病院にいたということで、50歳を超えていたが、わたしより10歳ぐらい若かったらしい。小柄で美男子で、どこか女性的で、やさしい話ぶりで患者をなぐさめてくれたり、勇気づけてくれたり、わたしにはたいへんよい医者であった。
S先生は、わたしの血圧を計っては、〈あなたは長生きしますよ、交通事故にでもあわなければ、死にませんよ〉と言って、わたしをよろこばせてくれたものである。
いつかその先生が病院に入院したという話をきいたが、やがて肺ガンで亡くなられたということだった。そういえば、わたしが最後に先生の診察をうけたころ、先生は少し黒ずんだような暗い顔をしていた。そのとき先生はもう自分の死を予感していたのかも知れない。しがたってS先生はわたしよりも10年早く人生を終えたということになる。それにしてもガンは恐ろしい、死にいたる病である。
その後、S先生のあとを息子の若先生が継いで診療をつづけている。さいきん、やはり風邪をひいて、例の魔法の注射をしてもらったが、前の先生のときのようには、なぜか効き目がなかったように思う。それがブドウ糖の注射だということを若先生がわたしに教えてくれたのである。亡くなられた先生は、そのブドウ糖に何かほかの薬をミックスしていたようにも思われる。
ありがたいこと
わたしは成形手術後の療養生活以来、毎朝1時間ぐらい散歩をつづけてきている。雨の降る日も傘をさして散歩する。散歩しないと昼食がたべられないということもあるが、やはり1日が始まらないという感じである。それに散歩すると、頭もすっきりして仕事ができるようになる。
それから成形手術はわたしの健康にとって思わぬプラスをもたらしたように思われる。というのは、40歳代のその大手術を境にして、わたしのアルコール依存症が自然になくなってしまったのだ。肺活量が小さいから、自然に、たくさん酒をのむことができない。それと同時に、煙草をやめることもできた、わたしが長生きすることができたのはこういう悪い生活習慣を改めたためでもあろう。わたしはいまでも晩酌1合ぐらいは飲んでいる。しかしそれ以上飲まないし、飲めない。そこのところがありがたい。飲みたいのを我慢する必要がないからである。
(おおしまはっこう 詩人)
(『月刊保団連』〈私の主治医〉 1987年3月)
大島博光
ボヘミヤン生活
〈わたしの主治医〉というテーマを与えられて、わたしは初めて自分の病歴のことなど書く機会をあたえられたということになる。
わたしは1910年に生まれた。したがって、あの15年戦争の時代に青春を過ごした世代にぞくしている。1930年代の若い頃、わたしは肋膜炎から結核にかかった。当時、結核は〈肺病〉と呼ばれ、肺病病みということばには、不治で、死にいたる病という、不吉で絶望的なひびきがあった。じじつ、たくさんの若者たちが結核のために、あたら蕾のような身で死んでいった。わたしのある友人は、柔道三段という屈強の猛者であったが、ギャロップ性の結核のために、わずか2ヵ月ぐらいの入院生活ののちに死んでしまった。
わたしはそんな病気をもちながら、毎晩酒にひたっているようなボヘミヤンの生活を10年以上もつづけていた。その間、2、3ヵ月ぐらいの静養生活を何度かくり返した。戦争中には、わたしにもいく度か召集令状がやってきたが、そのつどわたしは即日帰郷になった。やはり結核の症状がはっきり出ていたのであろう。その頃書いた詩にこんなのがある。
わが病む胸の石切場
はや截りいだす石のなく
斧の音のみ聴こゆなり
外部も内部も私にとっては絶望的だった。
戦争の終わる頃は、郷里の千曲川のほとりに帰って毎日鯉釣りをして過ごした。それがわたしの健康にとってはよかったらしい。
胸部成形手衍
こうして戦後まで生きのびたおかげで、わたしは1950年頃に胸部成形手術というのを受けるこができた、右側の肋骨を6本ほど切除された。手術は成功であったが、数年たってもなかなか気力は出て来なかった。1年の3分の2はほとんど寝ていた。〈多摩川療養所〉へ行くといって、毎日のように多摩川へ鯉釣りに出かけた。釣り気ちがいだったから、静養を口実にして行ったということにもなろう。そのためにしばしば、あいつは仮病をつかっているのだ、とも見られた。そんな釣りが10年近くもつづいたろう。だからその頃わたしは鯉釣りで人生を棒に振ったとよく自嘲するように言っていたものだ。しかし、いまにして思えば、そのおかげで長生きして、多少のところは取りもどしたとすれば、鯉釣りで人生を長びかせることができたとも言えよう
しかしまた、仮病ではなかったにもせよ、ちょっと仕事をすると、ぼおっと微熱が出てきて、仕事は進まなくなる。気管支のあたりがもやもやして、重い鈍痛を胸に感じながら、目覚めの悪い日がつづいたりした。
死を予感
そんな状態で、わたしはよく風邪をひいた。風邪をひくと、わたしはかかりつけのS先生のところへ行って、魔法の注射をしてもらうことにしていた。その注射をしてもらうと、わたしはたちまち元気になって病床から立ち上がることができるのであった。それがプドウ糖の注射だということを、その頃わたしはまだ知らなかった
S先生は、以前は九州の炭坑の病院にいたということで、50歳を超えていたが、わたしより10歳ぐらい若かったらしい。小柄で美男子で、どこか女性的で、やさしい話ぶりで患者をなぐさめてくれたり、勇気づけてくれたり、わたしにはたいへんよい医者であった。
S先生は、わたしの血圧を計っては、〈あなたは長生きしますよ、交通事故にでもあわなければ、死にませんよ〉と言って、わたしをよろこばせてくれたものである。
いつかその先生が病院に入院したという話をきいたが、やがて肺ガンで亡くなられたということだった。そういえば、わたしが最後に先生の診察をうけたころ、先生は少し黒ずんだような暗い顔をしていた。そのとき先生はもう自分の死を予感していたのかも知れない。しがたってS先生はわたしよりも10年早く人生を終えたということになる。それにしてもガンは恐ろしい、死にいたる病である。
その後、S先生のあとを息子の若先生が継いで診療をつづけている。さいきん、やはり風邪をひいて、例の魔法の注射をしてもらったが、前の先生のときのようには、なぜか効き目がなかったように思う。それがブドウ糖の注射だということを若先生がわたしに教えてくれたのである。亡くなられた先生は、そのブドウ糖に何かほかの薬をミックスしていたようにも思われる。
ありがたいこと
わたしは成形手術後の療養生活以来、毎朝1時間ぐらい散歩をつづけてきている。雨の降る日も傘をさして散歩する。散歩しないと昼食がたべられないということもあるが、やはり1日が始まらないという感じである。それに散歩すると、頭もすっきりして仕事ができるようになる。
それから成形手術はわたしの健康にとって思わぬプラスをもたらしたように思われる。というのは、40歳代のその大手術を境にして、わたしのアルコール依存症が自然になくなってしまったのだ。肺活量が小さいから、自然に、たくさん酒をのむことができない。それと同時に、煙草をやめることもできた、わたしが長生きすることができたのはこういう悪い生活習慣を改めたためでもあろう。わたしはいまでも晩酌1合ぐらいは飲んでいる。しかしそれ以上飲まないし、飲めない。そこのところがありがたい。飲みたいのを我慢する必要がないからである。
(おおしまはっこう 詩人)
(『月刊保団連』〈私の主治医〉 1987年3月)
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