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詩に音楽性を

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 詩に音楽性を
                      大島博光

 詩の朗読がまたさかんになる機運がみられる。 そしてそれはそれなりの条件と必然性をもっているのだ。つまり、集会と言論が自由となり、集会がわれわれの社会生活の大きな部分をしめるようになってきた。そして詩人たちもひとびとのなかに出て行って、すべてのひとびとと詩を語り合うようになってきた。また、ひとびともみずから自分の感情や思想を詩にうたうようになってきた。こうして詩の朗読される機運はいたるところにかもしだされてきている。詩の朗読会や研究会もよくおこなわれている。たしかに、詩の朗読はその役割と機運とを大きく増してきたのである。

 このような新しい条件のもとに、詩の朗読はさかんになるべきであるが、このことはどうしても朗読に適した新しい詩をつくりださなければならないこと意味し、あらためて詩について考えなおすべきであることを意味する。
 いままで、詩はきわめて少数の詩人たちによってつくられ、一部の詩を愛好者だけによって読まれてきた。つまり、詩と民衆とのむすびつきはほとんどみられなかった。詩人たちがひとりよがりの、狭い心情のみをうたってきたことも事実であり、このような傾向はまだまだ根深い。それに印刷の発達にともなって、詩はただ目でよまれるものになってしまい、詩の実質をなすところのリズム、調子、ひびきはだんだん失われ、散文とほとんどかわりのないものになってしまった。こうして、詩は目で読んで、頭でその意味や感じを解く判じもののようなものになってしまった。生活からかけはなれて、ただ頭のなかでつくりあげられるような詩は、このようなものになったのは当然のことと言わねばならぬ。

 詩も今こそすべてのひとびとの生活のなかに根をおろし、そこから歌いだされるものとならなければならない。そうしてはじめて詩の朗読される意義もはっきりしてくるのだ。いくら詩の朗読がさかんになっても、詩が朗読に値し、耳できいて美しい効果のある詩が書かれない限り、朗読の研究や練習だけでは、決して詩の朗読は進歩しないだろう。
 われわれは今こそ詩の音楽性をとりもどさなければならぬ。今こそ、詩が失っていた音楽性の翼をとりもどさなければならぬ。現実の生きいきした影像、ひとびとのよろこび、悲しみ、怒り、涙は、新しい詩のひびきとリズムのつばさにのってのみ、ひとびとの耳をうち、ひとびとの胸にねむっている感情をよびさまし、かきならすであろう。

(『新詩人』1947年3月)

千曲川

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