詩人は見る者、透視者であるといわれる。眞に眼醒めている者として、眞に夢みる者として、詩人は今こそ厚い影の壁を見とおし、明晰に凝視し、厳密に夢みるべき時である。ひとびとの共同の生活に根深くはいり込んで、いたるところに暗い真理を読みとり、歌いださねばならない。私たちは二度と迷信や虚偽を歌わないように眼醒め、迷信や虚偽から人間を解放しなければならない。人間に無智を強い、人間をただ腐敗させるような巨大な悪の手から人間を擁護しなければならない。
こうして私たちの人間性そのものが変えられるべき時がきたのである。より多くの意識をもてる新しい人間が形成さるべきであり、そしてこの新しき人間はそれを歌うべき新しき詩人を見出すであろう。革命的な新しき文化建設の一翼はそれら生れくる新しき詩人たちの肩に担われるであろう。私たちはそのような革命的な詩人の登場してくるのを心待ちに待っているのである。
新しい詩は、詩と科学との綜合の方向に進められるであろう。新しい詩は、眞に悦ばしき科学の名をかち得なければならない。詩と科學とは両立しがたい相反する二つのものであるというように考えられてきたが、今やこの古い考え方は一掃されなければならない。古い世界にあって、エドガア・ポオにおいて詩的精神と科學的精神の綜合は試みられたのであったが、今や私たちの新しい世界にあっては、全く新しい面に於いて詩と科学との綜合が果たされねばならない。そうしてこのような詩精神と科學的精紳の結婚は詩人の内部に於いてまず生きられねばならない。詩は単なる詩論や詩形からつくられるのではなく、詩への生きた血と肉をとおして、果実のように熟すべきものだからである。いかに現実からかけ離れ、人間性から抽象されているように見える詩作品でも、なお真実には生きられた地上の生活のひびきと雰囲気とを担っているからである。しかし、ここで詩と科學との総合を掲げたとはいえ、それは詩のなかに科学的術語や代数の方程式を取り入れよ、という意味ではない。詩の中に於いてはすべての思想や理念は深く秘められていなければならず、ここでいう科學、或いは科學精紳も詩のなかに深く秘められ、いわば眼に見えない血管のように詩をつらぬいて流れ、或いは眼に見えない堅い骨格のように、詩の肉を支えるものでなければならない。このような詩が生まれてくるためには、科學的精神が詩人の内面生活に浸透し、そこで血となり肉となっていなければならず、しかも絶えざる覚醒と追求とによって闘いとられねばならない。
今やすべてのひとびとの飢えた胸をうつ新しい言葉の音楽は、新しい世界の生成とともに鳴りひびき、迸りでるだろう。新しい影像は現実を抉りつつ、新しい未知を拓き、新しい夢を見させるであろう。
「夢みなければならぬ」というレーニンの言葉は、新しく詩人たちに課せられているのである。
(完)
(『新詩人』1946年3月)
- 関連記事
-
-
国民詩について 2017/02/26
-
詩に音楽性を 2016/08/24
-
新しき詩のために(下) 2016/08/23
-
新しき詩のために(上) 2016/08/22
-
屍体置場 2014/08/03
-
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/3026-3ecfb70a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック