スペイン戦争・第二次世界大戦の前後(下)

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 さて、歴史はとつぜん急迫を告げる。
 一九三六年四月・五月の下院総選挙において、フランス人民戦線は、ファシズム排撃、経済恐慌の克服を要求する国民多数の支持によって勝利し、六月には人民戦線内閣が成立する。
 しかしスペインでは、一九三六年七月、ヒットラーとムッソリーニの支援をえて、ファシスト・フランコ軍がスペイン人民戦線政府にたいして反乱を起し、ここにスペイン市民戦争が始まる。この頃、アラゴンとエルザは、モンパルナスのカンパーニュ・プルミェール街から、右岸のスールディエル街のアパートに移る。そこはパレ・ロワイヤルとオペラ座のあいだにあって、そこに彼らは一九五七年まで、二○年のあいだ住むことになる。
 一九三六年秋、アラゴンは「文化擁護国際作家連盟」の救援物資をスペイン人民戦線軍にとどけるため、トラックに同乗してマドリードへゆく。当時スペインには、エレンブルグ、パブロ・ネルーダ、へミングウェイなどがいた。ファシストの手に落ちたガルシア・ロルカは、すでにグラナダで銃殺されていた。

  酒杯(さかずき)は地に投げつけられ 血が流れ流れる
  なんという無念さ よき酒ロルカよ
  ガルシア・ロルカは赤い酒だった
  ジプシーのよき酒だった

  いきなり グラナダで
  太鼓がはたと止む
             (『未完の物語』)

 アラゴンは十一月初めにパリに帰る。そのときマドリード攻防戦が始まっていた。アラゴンはその冬のあいだ、パルセロナの「コブラ」楽団の巡業をパリと地方に組織して、スペイン人民への連帯をよびかける。この「コブラ」はのちに『断腸詩集』のなかで歌われることになる。
 このように急迫したスペイン情勢を報道する必要にこたえて、一九三七年三月から党の機関紙のひとつとして「ス・ソワール」紙が発刊され、アラゴンは先輩のジャン・リッシャル・ブロックとともにその編集にあたり、一九三七年から三九年まで、アラゴンは「ス・ソワール」紙の編集長をつとめる。
 一九三七年四月には、有名なゲルニカの悲劇──フランコを支援するナチス・ドイツ空軍の爆撃によって、バスク地方の小さな町ゲルニカは全焼し、市民のほとんどが犠牲になった──が起きて、全世界に大きな衝撃をあたえる。さっそく「ス・ソワール」紙はこの事件を写真入りで報道する。やがてピカソの『ゲルニカ』が描かれ、エリュアールの「ゲルニカの勝利」が書かれる……。

 さて、スペイン人民に襲いかかるファシストたちの暴虐をまのあたりに見て、スペインの詩人とともに怒りの声をあげ、闘いの詩を書き始めたチリの詩人がいた。──パブロ・ネルーダである。その詩集『心のなかのスペイン』が出版されると、一九三八年八月、この詩集はアラゴンとルイ・パローの共訳によってフランスに紹介され、やがて始まるフランスの抵抗詩にとっても先駆的な詩集となる。のちにアラゴンは「パブロ・ネルーダへの哀歌」のなかに書く。

  一九三六年 燃える戦火が
  あのイベリアの 青空を
  赤あかと 焼き焦すとき
  マドリードで かれは総領事
  聞け アメリカの声 ひとつ
  楽師らの音に あわせて
  愛をうたい 憎しみをうたい
  義勇兵たちの 死をうたう

  きみは母親たちに 歌ってきかせた
  どのようにして 息子が死んだかを
  ネルーダよ にがい葡萄の実は
  息づまるような風で 熟れるのだ
               (飯塚書店『アラゴン選集』第二巻)
(この項おわり)

新日本新書『アラゴン』

アラゴン
アラゴン、壁にマヤコフスキーの肖像、スペイン共和国ポスター(1937年)


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