スペイン戦争・第二次世界大戦の前後(上)

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スペイン戦争・第二次世界大戦の前後

 さて、『ウラル万歳!』が刊行されたのは一九三四年の末であった。この詩集の扉には、「一九三四年二月九日および十二日の反ファシズム闘争で倒れたペレ、ローシャン、タイエ……へ」という八名の同志への献辞がしるされている。この小さな献辞はしかしその時代の状況の波頭を示すものであった。もしも一九三六年に始まるスペイン市民戦争を第二次世界大戦の序幕とすれば、それはまさに大戦の前夜であった。

 一九二九年の秋、アメリカにはじまった世界的な経済恐慌は、たちまちヨーロッパにもひろがった。シュールレアリスムの華やかな開花をゆるしていた相対的安定の時代は幕を閉じる。階級対立が鋭くなる。ロンドンにも、ベルリンにも、失業者の群れがあふれて叫びをあげる。新しい戦争を告げる暗雲が地平線にあらわれてくる。ドイツでは、この機に乗じてヒットラーが政権を獲得し、町々の広場でドイツの古典を焼きはらう。イタリアでは、ムッソリーニがさかんに政治犯をリバリ島に追放していた。日本帝国主義は中国侵略を開始する。フランスでも、シュールレアリストのシネアスト、ブニュエルの『黄金時代』を撮影していた「スタジオ28」が右翼ファシストによって襲撃される……。

 こういう情勢のなかの一九三四年二月六日夕べ、「アクション・フランセーズ」「クロワ・ド・フー」「愛国青年同盟」など右翼の諸団体とパリ市民から成る数万人が、コンコルド広場に集まり、そこから議会に押しかけようとして、警官隊および機動隊と衝突し、機動隊の発砲によって死者十四名、負傷者は数百名にのぼる。これがいわゆるパリの「二月六日騒擾」で、ファシストたちがファシスト独裁をめざして行動を起こしたのである。
 これに対して、労働者階級が立ち上る。フランス共産党は反ファシズム闘争の先頭に立って、二月九日、レピュブリック広場で抗議集会をひらく準備にとりかかる。ドゥメルグの半ファッショ政府はこの集会を禁止し、あらかじめ警官隊と軍隊をして広場を占領させ、徹底的に取締ろうとしたが、二月九日の夜、労働者市民の抗議デモはレピュブリック広場の周辺から東部一帯の労働者街に展開され、四時間にわたって流血の衝突がつづく。この夜、六名の労働者が殺され、数百名が負傷し、約一二○○名が逮捕され、市街戦の激しさは、一八四八年の二月革命をしのばせるものがあった。この二月九日の示威運動は、より広汎で断固とした反ファシズム闘争の序幕となる。二月十二日、労働者階級はフランスじゅうで二十四時間のゼネ・ストに立ち上る。このゼネ・ストは、統一総同盟、社会党、共産党の協力によって組織され、四五○万の組織労働者が参加する空前のものとなった。これを機会に、ファシズムの脅威を前にして、共産党と社会党とは初めて統一行動をとり、共同戦線を結成する。そしてこの共同戦線は、一九三五年、急進社会党左翼を加えて、あの人民戦線へと発展してゆく。
 アラゴンはこの労働者の反ファシズム闘争に参加して、労働者たちの英雄的な闘いや社共の統一行動をまのあたりに見て、「天をも衝くパリ労働者」を書く。
 「……わたしはその人たちが倒れるのを見た。その人たちが闘うのを見た。
 二月九日金曜日……ランクリ地下鉄駅(訳注・現在のボンセルジャン)で、殺し屋の大部隊の前で、あの歴史的な出会いが行なわれたのだ。そのこだまはわたしの耳から消えることはないだろう。二千の社会党員が東駅からやってきて、われわれに合流したのだ。この忘れがたい出会いを、わたしはこの眼で見た。この出会いは労働者たちをただ一つの戦線にじっさいに結びつけたのだ。わたしはみんなといっしょにインターナショナルを歌った……」(『コミューヌ誌』一九三四年五・六月号)
(つづく)

新日本新書『アラゴン』

東駅

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