レニングラード封鎖の中で鳴り響いた交響曲 ─ひのまどか「戦火のシンフォニー」(9)

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エピローグ──しかし、ミューズは黙らなかった

 《第七番》レニングラード初演は果たされたが、町の封鎖は依然として続いていた。大祖国戦争もまだ前半戦の半ばだった。初演の日、8月9日は包囲345日目に当たった。この後もドイツ軍は周期的に激しい砲撃を加えてきたが、明らかに以前より回数も勢いも劣っていた。ゴーヴォロフ中将らの「包囲解除作戦」がドイツ軍に多大な損害を与えたのと、7月半ばから始まったスターリングラード攻防戦で、ヒトラーの目がレニングラードに向かなくなったからである。

 この間も、エリアスベルクとラジオ・シンフォニーは通常のコンサートや音楽放送に加えて、復活した「オペラ・バレエ・シーズン」の月10回の公演に、エネルギーの全てを使い果たしていた。オーケストラのこの献身的な働きはもちろん市民を励ましたが、それだけではなく、敵にも意外なメッセージを送っていた。戦闘で赤軍の捕虜になったドイツ兵たちは、尋問に答えて異口同音にこう語ったのである。「我々は暫壕の中でいつもレニングラードの放送を聞いていたが、一番驚き、戸惑ったのは、フィラルモニーやスタジオからの音楽放送だった。もし町が、このとてつもない状況の中でクラシック音楽のコンサートをやれているのだとしたら、一体ロシア人はどれだけ強いんだ?そんな敵をやっつけることはとうていできない、と思い、恐ろしくなった」

 1943年10月23日、全ソ・ラジオ委員会代表の作曲家カバレフスキーが、レニングラード・ラジオ委員会の働きを調査するためモスクワから派遣されてきた。10日間の滞在中カバレフスキーは多くのコンサートを聴き、後日詳細な報告書を作成した。その冒頭にはこう書かれていた。
<レニングラード・ラジオ委員会の芸術番組は高いレベルにあり、政治的・芸術的要請に対応している。特に素晴らしいのは、エリアスベルク指揮の大シンフォニー・オーケストラだ。この団体を、ソビエト連邦の四指に入る第一級のオーケストラに認定すべきである>
 エリアスベルクは封鎖の困難な状況の中で、ラジオ・シンフォニーを疎開中のレニングラード・フィルや首都のモスクワ放送交響楽団と肩を並べる名団体に育て上げたのだった。

 レニングラード封鎖が解けたのは、1944年1月27日だった。これによって2年5ヵ月、900日(正確には881日)にも及んだ封鎖は終わった。政府は封鎖の期間の死者は63万人と発表したが、市民は誰も信じなかった。死者数は推定130万〜150万人に上っていたが、もはやそれを口に出せば「反逆者」にされるのは明らかだった。開戦時の解放感、連帯感は、戦況の好転とともに消え去り、人々の生活には再び以前の黒い影、監視と密告と粛清の影が覆い被さっていた。その影はラジオ委員会にも及んだ。封鎖が解ける直前、ラジオ委員会の芸術監督バーブシキンは「人民の敵」という理由で秘密警察に逮捕され、最前線ナルヴァに送られたその日に戦死した。死の直前、彼は友人の記者フリドレンドルに手紙を送っていた。
《僕は、我々の国の悲惨な年の歴史に、自分の仕事の結果が少しでも入っていることを誇りに思う》
 ラジオ・シンフォニーの復活も、《第七番》レニングラード初演も、バーブシキンの優れた指導力なくしては不可能だった。その最大の功労者の彼が「人民の敵」扱いされたのは、戦時中鳴りを潜めていた「反ユダヤ主義」が再び台頭してきたからだった。しかも彼は、戦死ではなく殺されたのだということを、弾は後ろから飛んで来たのだということを、ラジオ委員会の同僚たちは確信していた。バーブシキンの死を知り、その直後に届いた手紙を見た全員が、激しく泣いた。彼はまだ30歳だった。同僚たちは党本部に真相を問いつめに行ったが、党は党員であるバーブシキンの記録を消し去っていた。

 1945年5月9日、スターリンは大祖国戦争の勝利を宣言し、6月24日にモスクワの「赤の広場」で盛大な祝勝パレードを催した。これに先立っこと約ふた月、ヒトラーは4月30日にベルリンの総統官邸地下壕で自決していた。

 1960年代に入り、第235番中学校の教師と生徒たちの間で、レニングラード封鎖の間の町の文化と芸術を記録する博物館を作ろう、というアイデアが持ち上がった。一人一人が親や親戚や知人に呼びかけて、封鎖の時に使っていた品々を持ち寄った。ショスタコーヴィチもエリアスベルクもラジオ・シンフォニーのメンバーもほとんどが健在だったので、《第七番》レニングラード初演に関する資料や楽器や個人の証言が大量に集まった。
 1968年3月16日、校舎内に、ショスタコーヴィチと900日封鎖の中で行われた《交響曲第七番》初演に捧げる、世界でも類を見ないユニークな博物館がオープンした。博物館は、「大砲が鳴る時、ミューズは黙る」というロシアの諺を覆した英雄音楽家たちと市民を讃えて、「しかし、ミューズは黙らなかった」と名付けられた。

 一つの音楽作品が、これほど巨大な歴史的・政治的・社会的背景を持って生まれ、それが、これほど膨大な人間ドラマを生んだ例を、私は知らない。
(完)

(ひのまどか「戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実」新潮社 2014年3月)

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   
 著者はヴァイオリニストで音楽作家。現地取材、膨大な資料とインタヴューを駆使して奇跡の史実を再現した。
 極限状況の下、音楽を通して闘った音楽家たちとレニングラード市民への讃歌、そして侵略者を打ち破ったソビエトの人々への讃歌である。

レニングラード初演
ショスタコーヴィチの交響曲第7番。 1942年8月9日。
レニングラードラジオ委員会の交響楽団。指揮カール・イリイチ・エリアスベルク
(http://nashenasledie.livejournal.com/1360921.html)


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