レニングラード封鎖の中で鳴り響いた交響曲 ─ひのまどか「戦火のシンフォニー」(1)

ここでは、「レニングラード封鎖の中で鳴り響いた交響曲 ─ひのまどか「戦火のシンフォニー」(1)」 に関する記事を紹介しています。
レニングラード封鎖の中で鳴り響いた交響曲─ひのまどか「戦火のシンフォニー」(1)

現地取材、膨大な資料とインタヴューを駆使して奇跡のような史実を再現したドキュメンタリー。

ドイツがソビエト侵攻に突入、レニングラードに向かって怒涛の進撃をしていた1941年7月、ショスタコーヴィチは愛するレニングラードに捧げる交響曲第7番の作曲に着手した。レニングラード市民を鼓舞すべくレニングラード初演をめざして。しかし、第3楽章を完成させた時に疎開を命じられ、レニングラードを離れる。レニングラード・フィルとムラヴィンスキーも他の芸術団体とともに命じられて疎開した。

ドイツ軍に包囲されたレニングラードに残って演奏を続けたのが本書の主人公・ラジオ・シンフォニーと指揮者エリアスベルクである。ラジオ・シンフォニーはレニングラードラジオ情報委員会(「ラジオの家」)直属の交響楽団。
政府の重要なプロパガンダ機関である「ラジオの家」では、「非常時に音楽は不要だ、芸術は何の役にも立たない」として音楽は片隅に追いやられた。音楽家は解雇され、残った音楽家も勤労動員された。

文化都市レニングラードは8月末に完全封鎖され、9月には空襲が始まるが、空襲警報の合間を縫ってコンサートが続けられ、多くの市民が楽しんだ。

ヒットラーは「レニングラードは明日にも陥落する」「地上から抹殺する」との宣伝を世界に向けて放送していた。これに対してラジオ委員会はレニングラードは生きて戦っていることを世界に知らせる必要があった。オーケストラによるコンサートを世界に実況放送することが最強の文化的プロパガンダだとするラジオ委員会委員長ホドリェンコと芸術監督バーブシキンの主張が認められ、ラジオ・シンフォニーの活動再開が指令された。
9月29日の深夜、チャイコフスキーの交響曲5番が響き渡り、イギリス向けに放送された。夜が明けると放送を聴き感激した市民が押し寄せ、電話が鳴り止まなかった。「音楽が聴けてとても幸せでした!」「もっともっと聴かせてください!」

(つづく)

戦火の
新潮社2014年

関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/2988-d72eb672
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック