大島博光氏とランボー詩(上)

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 大島博光氏とランボー詩
                         堀内みちこ

 今から十数年前、わたしが、詩誌「新現代詩」の同人だったとき、ランボー詩に関してエッセイを書くことになった。その雑誌の主催者、出海渓也氏は、もう亡くなられたが、わたしが同人だった頃はすこぶる元気で、色々と教えていただいた。出海氏の発行スタイルは、斬新さを会得し、それを表現することだった。常にテーマを掲げ、問題提起をする人だった。いわゆる詩人のタイプではないかもしれない。前衛を好んだ。だが、同人たちの作品を、親切丁寧に扱い、彼らが成長するのを楽しみにしていた、と思う。そういう雑誌だったので、何を言っても何を書いても良いという自由さがあった。
 さて、ランボー詩に関して書いたらどうかと、提案された。わたしは食わず嫌いで、そのときまで、ランボーの詩を全部読んでもいないのに、読んだ気分でいた。有名な名は、常に、目に触れる。ゆえに、読んだかのような錯覚ですごしていたのだ。それを出海氏に看破されていたのだろうか。「何読んだらいい?ランボー詩集の訳で」「大島博光がいい」ということで、わたしはネットで、大島博光訳ランボー詩集を探して、購入した。それが手元にある、『世界詩人叢書 5 ランボオ詩集 蒼樹社』である。
 ご縁なのだろう。ランボー詩の翻訳書は沢山ある。その中から、大島博光訳を購入したのは。まず出海氏の推薦がある。このときに縁が生まれたのだろう。昭和二三年十月十五日発行 160円 蒼樹社の1冊だ。この本は装丁が和本のようだ。紙箱に入っている。ページを繰ると、手触りが和紙のようだ。フランス詩を和装本におさめるという大胆さ。装丁は大島氏が指定したのだろうか。ああ、していないと思う。なぜなら、これは叢書でランボオ詩集は5番目のようだ。大島氏は何も言わなかったと思う。縦16cm 横14.5cmの、手に収まりやすい大きさだ。
 あろうことか、わたしはこの詩集の全ページ、199ページを手書きで模写した。後にも先にも、一冊の詩集を模写したのはこのときだけだ。なぜ模写したのだろうか。手にした古本の詩集はあまりにも古びている。もし、わたしが詩を書いていなくて、古書を買うことをしなければ、一冊まるまる模写しただろうか。今になれば、模写したことは、とても良いことをしたと思える。もちろんランボーの詩を模写したのだが、日本語とフランス語の詩には大きな違いがある。フランス語を模写したら、ランボー詩の真髄に近づけたかもしれない。しかし、大島氏の非常にうまい訳で、わたしは一冊を模写できたのだ。ここで、わたしは気づく。ランボーの息継ぎと同時に大島氏の息継ぎを模写していたのだと。ということは、大島氏の資質にはランボーなどのフランス詩に共通するセンスがあるのだろうと思う。全く異質で、共感できない詩人の詩を訳せるだろうか。それから模写したのには、もう一つ大きな理由がある。このランボオ詩集は印刷も薄めで儚げだ。消えるかもしれないと慌てたのだ。書店に行けば、ランボオ詩集の翻訳書は簡単に手に入るのに、なぜ、本屋に行かなかったのだろう。
 わたしは紙の本を愛する者だ。こうして大島博光訳の詩集を読める幸せをありがとう。
(つづく)

<『狼煙』80号>

ランボオ

* 堀内みちこさんは現在個人詩誌「空想カフェ」を発行されており、詩、エッセイ、童話など精力的に活動されています。2015年11月発行の第20号には「ランボー その詩の中の色」という瑞々しいエッセイも見られます。詩人としての経歴もすでに長く、主な詩集に『花びらを噛む』(1966年 思潮社)、『黄金の矢を射る』(1999年 詩画工房)、『小鳥さえ止まりに来ない』(2006年 思潮社)、『夜の魔術師』(2012年 思潮社)などがあります。また詩誌「東国」の同人でもあられます。今回のような貴重なご寄稿をいただけましたのは、ひとえに堀内さんの気さくなお人柄によるものであることを言い添えておきたいと思います。(重田暁輝)

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