ネルーダ 愛の詩(4)

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  夏の風がどっと吹き込んで 扉をうち破った
  そのくちづけの激しさ
              (『夏のさなかの……』)

 この夏の嵐のような愛の激しさ──野性を愛したネルーダに、これほどふさわしいものはない。そして『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』における愛ほどに、人間的で素朴なものはない。

      おれは詩を書くことができる……

  おれは今夜 世にも悲しい詩をかくことができる

  たとえば こう書くこともできる「星の降るような夜だ
  はるかはるか遠くで 空の星星が顫えている」と
  夜の風が 夜空を吹きまわって 歌っている

  おれは今夜 世にも悲しい詩を書くこともできる
  おれは彼女を愛していた 時には彼女もまたおれを愛した

  今夜のような夜夜 おれは彼女を腕のなかに抱いた
  果てしもない空の下で おれは幾度となく彼女にくちづけをした

  おれは今夜 世にも悲しい詩をかくことができる
  彼女はもうおれのものではない 失ってしまったのをひしひしと思い知る

  茫茫とした夜に聞き入れば 彼女のいない夜はさらに茫茫として
  草の葉に露がおりるように おれの心には詩がうかぶ

  おれの愛が彼女をひきとめられなかったとて しかたがない
  星のこぼれるような夜なのに 彼女はもうおれのそばにはいない

  今夜もおんなじ木木が白く照らされて おんなじような夜だ
  だが あの頃の二人と いまのおれたちとはもう同じ二人ではない

  あの声も つややかな肉体(からだ)も あのぼおっとした果てしない眼も
  ほかの男のものになるのだ おれの愛したその前のように

  ほんとにもう愛してはいないが ひょっとしたらまだ愛しているのかも知れぬ
  恋はあんなに短いのに 忘れるためには こんなに永くかかるのだ

 ここでは、愛は肉体をもち、肉体的である。ここでは、愛は、肉のよろこびや肉の陶酔を隠してはいない。きわめて感覚的なモダニストであったルベン・ダリーオにあってさえ、まだ人間は理想化され、神秘的なものとして観念化されていたことを思えば、ネルーダのこのマテリアリスムは注目されていいのである。
 『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』は、いまなお、ひろい読者に愛誦されている。いたるところの酒場で、農場の焚火のまわりで、学生たちの集りで、これらの詩は即興的に朗読され、歌われている。それはもう、ひとりの詩人の言葉ではなく、万人の声であり、万人の言葉となっている。だが、この詩集のなかに歌われているのは、むかしながらの古い嘆きであり、不幸な愛の歌にほかならない。ネルーダのすばらしい歌も、なんら、その悲しい調べを変えるものではなかった。
 しかし、ネルーダがみずからの生活と詩とを変える時がやってくる。それまでは、なお多くの苦しみと彷徨とたたかいとをくぐり抜けねばならない。そしてその新しい時がやってくるとき、かれは、むかしの不幸な愛のかわりにしあわせな愛をうたい、新しい愛をうたうだろう。
 三十五年後の『百の愛のソネット』がそれである。
(つづく)

<『愛と革命の詩人ネルーダ』国民文庫 1974年6月>

『夏のさなかの……』

海




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