ソヴェト同盟をほめたたえる詩章では、ソヴェトの頭文字SSSRがリフレーンとなる。それはまたそのまま蒸気を噴いて全速力で走る機関車の擬音となり、リズムとなる。
赤い列車は動き出し だれも止められはしない
SSSR SSSR
……
「五カ年計画」を四年で遂行しよう
SSSR 人間による人間の搾取をやめさせよう
SSSR SSSR SSSR
『赤色戦線』は、アラゴンが詩における観念論から唯物論へ移行する過渡期の作品であり、レアリスム詩への最初の試みでもある。そしてこの作品のなかに、その後大きく発展してゆくアラゴンの詩の萌芽を読みとることができる。またそれによって、十年後レジスタンスの詩人アラゴンの詩がどのようにして生まれてきたかを理解することができよう。
一九三〇年十二月、アラゴンとサドゥールはソヴェトから帰ってくる。彼らのハリコフ会議の報告は、とうていブルトンらによって受け入れられるものではなかった。激論が三カ月にわたって行なわれる。
ところで、アラゴンがソヴェト滞在中、社会主義的情熱に燃えて書いた長詩「赤色戦線」が、『迫害する非迫害者』一九三一年十月)の冒頭を飾り、またモスクワで刊行された『世界革命文学』誌のフランス語にも掲載された。このフランス語版はパリで十一月に押収され、翌一九三二年一月十六日、予審判事は、アラゴンを「無政府主義的宣伝ヲ目的トシ、軍隊ニ、不服従行動ヲ挑発シタ」というかどで告発する。違犯者は入獄五年の刑に処せられるはずである。こうしていわゆる「アラゴン事件」が始まる。
シュールレアリストたちはさっそく抗議の声明文を発表して、アラゴン告発に反対する署名運動を展開する。抗議文はブルトンの筆によると思われる。
「アラゴン告発は……フランスにおいて前代未聞のことである。われわれは、裁判に付する目的で詩的作品の干渉する一切の企てに反対し、ただちに追及の中止を要求する」
この抗議文には、フランスの各方面の知識人たちをはじめとして、ベルギー、ドイツ、チェコスラヴァキア、ユーゴスラヴィアなどから、たちまち三○○名を超す署名が集まる。
ブルトンはこの告発には反対したが、『赤色戦線』にたいする作品評価の点ではまったく否定的だった。『詩の貧困』(一九三二年三月)のなかに彼は書く。「ふたたび『赤色戦線』にもどって言えば……わたしは断言せざるを得ない──この詩は、詩に新しい道をきりひらくものではなく、この詩をもって、こんにちの詩人たちが見習うべき模範とすることはむだであろうと。その主な理由は、このような(詩の)領域においては、客観的な出発点はただ客観的な到達点に達するだけであり、この詩における外部的主題、とりわけ議論を呼び起こす主題への後退は、こんにち、もっとも進んだ詩的形式から引き出される歴史的教訓とは一致しないからである……この詩は絶えず特殊な事件、社会生活の状況によりかかっている。この詩がアラゴンのソヴェト滞在中に書かれたことを思えば、この詩を、現在提起されている詩的問題にたいする時宜を得た解答と見なすべきではなく、各人がめいめい好きなように行なう習作と見るべきである。なぜなら、詩における後退の別名は、状況の詩ということである」
この「状況の詩」という言葉は、ギロチンの刃のように落ちて、この論争にけりをつけた。そしてブルトンとアラゴンの絶交・決別は決定的となる。
さらに「状況の詩」の問題はシュールレアリストたちの頭にこびりついて、それをめぐって一つの詩的問題を提起することになる。例えば、エリュアールはブルトンの呪縛をのりこえて、とりわけスペイン戦争以来、状況の詩を書くようになり、くりかえし「状況の詩」について論及するようになる。
ところでアラゴンが状況の詩『赤色戦線』を書き、ハリコフ会議で弁証法的唯物論の道へはっきりと進み出て、ブルトンの「シュールレアリスム第二宣言」を否認した「アラゴン事件」は、シュールレアリスト・グループに根本的な問題を提起した。つまりシュールレアリスムの幻覚、魔法、狂気の内部世界に閉じこもるか、それとも、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級関係を正しく分析して、階級闘争、弁証法的唯物論、革命的レアリスムの道へ進みでてゆくか。これこそが「アラゴン事件」が提起した問題の本質であった。アラゴンとブルトンの決裂の逸話的な細部もこの本質をぼやかすことはできない。
(この項おわり)
<新日本新書『アラゴン』>
赤い列車は動き出し だれも止められはしない
SSSR SSSR
……
「五カ年計画」を四年で遂行しよう
SSSR 人間による人間の搾取をやめさせよう
SSSR SSSR SSSR
『赤色戦線』は、アラゴンが詩における観念論から唯物論へ移行する過渡期の作品であり、レアリスム詩への最初の試みでもある。そしてこの作品のなかに、その後大きく発展してゆくアラゴンの詩の萌芽を読みとることができる。またそれによって、十年後レジスタンスの詩人アラゴンの詩がどのようにして生まれてきたかを理解することができよう。
一九三〇年十二月、アラゴンとサドゥールはソヴェトから帰ってくる。彼らのハリコフ会議の報告は、とうていブルトンらによって受け入れられるものではなかった。激論が三カ月にわたって行なわれる。
ところで、アラゴンがソヴェト滞在中、社会主義的情熱に燃えて書いた長詩「赤色戦線」が、『迫害する非迫害者』一九三一年十月)の冒頭を飾り、またモスクワで刊行された『世界革命文学』誌のフランス語にも掲載された。このフランス語版はパリで十一月に押収され、翌一九三二年一月十六日、予審判事は、アラゴンを「無政府主義的宣伝ヲ目的トシ、軍隊ニ、不服従行動ヲ挑発シタ」というかどで告発する。違犯者は入獄五年の刑に処せられるはずである。こうしていわゆる「アラゴン事件」が始まる。
シュールレアリストたちはさっそく抗議の声明文を発表して、アラゴン告発に反対する署名運動を展開する。抗議文はブルトンの筆によると思われる。
「アラゴン告発は……フランスにおいて前代未聞のことである。われわれは、裁判に付する目的で詩的作品の干渉する一切の企てに反対し、ただちに追及の中止を要求する」
この抗議文には、フランスの各方面の知識人たちをはじめとして、ベルギー、ドイツ、チェコスラヴァキア、ユーゴスラヴィアなどから、たちまち三○○名を超す署名が集まる。
ブルトンはこの告発には反対したが、『赤色戦線』にたいする作品評価の点ではまったく否定的だった。『詩の貧困』(一九三二年三月)のなかに彼は書く。「ふたたび『赤色戦線』にもどって言えば……わたしは断言せざるを得ない──この詩は、詩に新しい道をきりひらくものではなく、この詩をもって、こんにちの詩人たちが見習うべき模範とすることはむだであろうと。その主な理由は、このような(詩の)領域においては、客観的な出発点はただ客観的な到達点に達するだけであり、この詩における外部的主題、とりわけ議論を呼び起こす主題への後退は、こんにち、もっとも進んだ詩的形式から引き出される歴史的教訓とは一致しないからである……この詩は絶えず特殊な事件、社会生活の状況によりかかっている。この詩がアラゴンのソヴェト滞在中に書かれたことを思えば、この詩を、現在提起されている詩的問題にたいする時宜を得た解答と見なすべきではなく、各人がめいめい好きなように行なう習作と見るべきである。なぜなら、詩における後退の別名は、状況の詩ということである」
この「状況の詩」という言葉は、ギロチンの刃のように落ちて、この論争にけりをつけた。そしてブルトンとアラゴンの絶交・決別は決定的となる。
さらに「状況の詩」の問題はシュールレアリストたちの頭にこびりついて、それをめぐって一つの詩的問題を提起することになる。例えば、エリュアールはブルトンの呪縛をのりこえて、とりわけスペイン戦争以来、状況の詩を書くようになり、くりかえし「状況の詩」について論及するようになる。
ところでアラゴンが状況の詩『赤色戦線』を書き、ハリコフ会議で弁証法的唯物論の道へはっきりと進み出て、ブルトンの「シュールレアリスム第二宣言」を否認した「アラゴン事件」は、シュールレアリスト・グループに根本的な問題を提起した。つまりシュールレアリスムの幻覚、魔法、狂気の内部世界に閉じこもるか、それとも、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級関係を正しく分析して、階級闘争、弁証法的唯物論、革命的レアリスムの道へ進みでてゆくか。これこそが「アラゴン事件」が提起した問題の本質であった。アラゴンとブルトンの決裂の逸話的な細部もこの本質をぼやかすことはできない。
(この項おわり)
<新日本新書『アラゴン』>
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