ジャン・カイロール

ここでは、「ジャン・カイロール」 に関する記事を紹介しています。
レジスタンスにおけるキリスト者・詩人たち

ジャン・カイロール


 「詩は悲劇の第一線でたたかった。詩は多くの死者、聖者、英雄たちをうたった。そして闘いはつづいている。詩は、引き出された武器のように、まだ湯気を立てている……」
                 ジャン・カイロール

 伝説によれば、ラベンナの善女たちは、ダンテを指して言ったという。「ごらんよ、このひとは地獄からもどってきたのよ」と。ジャン・カイロールもまた地獄からもどってきた。人類はずっとむかしからこの世に地獄をつくりだしてきた。そして、レジスタンスの時代を生きた多くの人びとがこの地獄におとされた。多くの者は二度とその地獄からもどっては来なかったが、ほんのわずかな人びとがもどってきた。ジャン・カイロールもそのひとりである。
 地獄におちた詩人というのは、べつに新しいものではない。ランボーもまた「地獄の季節」を体験した。しかし、レジスタンスの詩人たちにとって、地獄におちるということは、たんなる精神的な体験ではなく、その血と肉をもって、その生身をもって、じっさいに地獄におちることであった。かれらは、レジスタンスの組織にくわわっていたゆえに、告発され、密告され、ゲシュタポに逮捕されたのである。
 すでに『ユリシーズ』『空飛ぶオランダ人』などの詩集をだしていたカイロールは、一九四一年来、レミ大佐の指揮する地下組織の一員であった。一九四二年六月十日、かれは逮捕されて、フレンヌの牢獄にぶちこまれた。一九四三年三月、かれはドイツのグッセン・マウトハウゼンの強制収容所(キャンプ)に移され、一九四五年五月に解放された。──これがジャン・カイロールの「地獄の季節」である。
 フレンヌの牢獄で、カイロールは最初の牢獄の詩を書く。「壁に書く」もそのひとつである。

  わたしは 沈黙にきき入る
  わが声の影に うずくまる
  「信仰」の ざらざらした壁に
  フランスの堅いパンに 身をゆだねる

  わたしは 帰ることに思いふけり
  閉ざされた扉のもとに うずくまる
  だれだろう 中庭で打ち叩いているのは
  だれだろう 平和をくちずさんでいるのは

  夜明けは 火の泉で
  大地を うるおし
  わたしは青空に 身をゆだねる
  大地のうえで苦しんでいる 青空に

 この詩はまさに、囚われた詩人が独房の壁に書いたものである。かれのあとにつづく人たちのために──かれと同じく、友としてはおのれ自身の声の影しかもたぬ人たちのために、声をひそめてうたった詩である。
 ところで、強制収容所(キャンプ)となると、これはまったく別のものである。これは今世紀に発明されたものであり、今世紀は、のちの世紀から、キャンプの世紀とよばれるかも知れない。キャンプは、強制労働、拷問、死刑などに役立つ。牢獄のあとにはキャンプがひかえているというわけである。まるで人類は、みずから発明した「地獄」なしには済まされないかのようだ。こうして多くの詩人たちもまたキャンプに投げこまれた。ジャン・カイロールもそのひとりである。そしてかれの詩は、キャンプに反対して闘ったものの証言として残るであろう。
 一九四七年に出版されたカイロールの詩集『人間と鳥たちとのたわむれ』のあとがきに、ピエル・エマニュエルはかく。
 「詩という稀なる天賦の才をうけ、象徴的なイメージの感覚、組織者としての息吹き、ヴィジョンなどをもった、ひとりの男──ことばの古風な意味において、深い勇気(ヴエルテュ)をもった、ひとりの男が──人間がそこにまるごと啓示されるような、並はずれたいさおしのうちに、このうえない気高さを示した。ひとりの男──友人たちのなかに身を現わすというだけで、友情をふかめることになり、友人たちに光をもたらす愛の行為となるような、ひとりの男──そしてなんという精神的布地によるのか、おそるべきキャンプの恐怖をくぐりぬけ、神の恩寵に心燃やしながら、永遠の明澄をたずさえて、生きてもどってきたひとりの詩人──かれがわれわれに示すのは、もっとも高貴な芸術は、精神(モラル)的創造につながるものであって、それは混沌たる本能にたいする勝利であると同時に、法律のおしつける諸強制にたいする勝利である、ということである。どうしてこの男の証言を必要として、むしろ天の摂理として、うけとらずにいられよう?ひとりの偉大な詩人が死にうち勝ったのである……」

 「おそるべきキャンプの恐怖をくぐりぬけ、……生きてもどってきた、ひとりの」男はつぎのように歌われている。

  腕ばかりが ひょろ長く
  痩せさらばえた男
  吐きすてられた痰のように汚らしい男は
  木の幹にしがみつき
  にがい樹皮に くちづけして
  必死に闘っていた
  立っているために

  脚(あし)が まるで
  二本の枯枝のようになり
  裸で 泥にまみれているとき
  立っているとは どんなことか
  あなたに わかるだろうか

  死が 身ぢかに
  すぐそばにあって
  まるで温かいべッドにさわるように
  死に頼をよせているようなとき
  立っているとは どんなことか
  あなたにわかるだろうか

  ひとりの男が 針のようなまなざしで
  発砲の恐怖に
  叫び声もあげず
  じっと 立っている
  いまにもかれをぶち殺す 弾丸(たま)が
  銃身のなかで うずうずしているのを
  男はもう 感じている
  そんな男とは どんなものか
  あなたにわかるだろうか

  そのすべてを 鳥は見た

 この美しい詩は、地獄のなかで、なお毅然と立っている人間の偉大さ、その本質的な高貴さを、読むものに認めさせずにはおかない。これはまた、もっともたしかな証言のひとつである。もしも、かれが心くだけて、たじろぐならば、かれは殺されるだろう。死ぬことは地獄からの解放となるかも知れない。しかしかれは生きながら自由になりたいのだ。そしてかれは、おのれを見据え、敵を見据える針のような力を、おのれのまなざしに与えることができた。そのことをこそ、詩人は告げたかったのだ。この世界で、詩人もまた鳥のまなざしによって見つめられているのである。
 その後、カイロールは主として散文による多くの作品をかいているが、それらの作品は、かれが地獄であじわった決定的な体験と無関係というわけにはいかない。あの地獄から、地獄での体験から、かれはけっして離れられなかったのである。

レジスタンスと詩人たち─第三章 レジスタンスの勝利>

カイロール
Jean Cayrol

関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/2950-49060c99
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック