叙事詩  大島博光記念館

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 叙事詩 大島博光記念館
                      嶋田誠三

長野県の大島博光記念館の前に 降り立ったとき 
そこは 秋のまっただ中 
周囲を囲む高き峰の山々は すでに紅葉に彩られ 
遠くに日本アルプスも展望され 
近く千曲川が青く流れていた 
大島記念館は意外にも 瀟洒(しょうしゃ)で明るい建物 
わきのレストランでは にぎやかな話し声 
どこか別世界の 華やかな趣さえある 
ここは周囲を山に囲まれているが 
前橋のようには 風は吹かないという
何処かメルへンのような 世界

わたしが詩人大島博光を知ったのは 
あの暗い戦争時代 わたしの少年期 
西條八十の「蠟人形」の誌面で 
ランボーを熱っぽく語る大島さんに出会ったとき 
わたしの心は高鳴った そこにはわたしの未知な
「自由」と「叛逆」があった
それは 荒れ狂う嵐の海の彼方に かすかに 輝く灯台だった

利夫が詩を書き始めたのは 
戦争の暗い重圧に閉じ込められていた少年期 
たけだけしいのは 戦争を賛美する声ばかり 
統制と号令だけが まかり通る時代 
アンデルセンとグリムの童話を聞きながら育ち
自由主義的な空気の残っていた小学校で学んだ利夫にはなじめない
中学三年生の時
「海軍兵学校を受験しろ」と言われ
「戦争に反対だから職業軍人にはならない」と答え 
同席していた 海軍将校は激怒
教師たちは 困惑と狼狽甚だしい 
だが利夫は発言を撤回しない 
そしてその日から 利夫のたたかいは始まる 
それは 山に登ること そして詩を作ること 
そして 学徒動員で理研鍛造に配置される

理研鍛造は 一五トンハンマーが うなりを上げて
真っ赤な鉄塊を 打ち続ける地獄のような職場
利夫が配属されたのは、その鍛造の機械部門 
そこへ配置したのは 利夫への懲罰だったのか 
利夫はそこの大型旋盤で高射砲の砲身削り

職場の労働者たちは語る 
「日本は負けているに違いない」 
「勝てない戦なら早くやめろ」
すると若い労働者が
「日本が負けたら 男はみんな殺されるって本当か。うそだろう」
と聞いた。
「本当だ、みんな殺される」
と年配の労働者が言った。
若い労働者は泣き出した それをみんなが取り巻いて笑った。
それが戦時下鍛造の労働者だった 
利夫はその労働者と仲良くしたが 
休日には独りで山に登り また詩を書いた
 
日本は敗戦 一億総懺悔 だれもが急に民主主義者
 戦後日本民主化の疾風怒涛時代が始まる
国民の飢餓と混迷の中 
日本の労働者は起ちあがる  二・一ゼネト宣言
アメリカ占領軍は動く
マッカーサー ゼネスト中止を命令
つぎつぎに打ち出す 戦後民主化への攻撃

敗戦で 学校の利夫の立場は 一変した 
利夫は戦時中反戦を貫いた少年になった 
秀才たちは一目置いたし 
 民主主義者になった教師たちは利夫の顔色をうかがった 
それで利夫は 全校生徒の圧倒的支持で生徒会長 
だがそれを尻目に利夫は制帽をあみだにかぶり 
 ランボーを気取って歩いていた 
わたしは実存主義者を気取り 
利夫はランボーを夢みていた

いま利夫の関心事は
戦時中 著名な歌人 俳人そして打情詩人までも 
戦争に追従し 戦争を賛美したことだ 
それは 日本的な情緒的な叙情性に 問題がある 
詩でそれを克服しなければ それが結論だった 
自由と叛逆のランボーの利夫が 
シュルレアリスムに目を向けた 
彼は焼け跡の街をさまよい『詩と詩論』を探し回り
毎日 一作ずつ詩を作り 『詩と詩論』の詩人に送った 
足利に住む 岡崎清一郎から
「会いたい」というはがきが来た 
翌年 高崎に疎開していた 
笹沢美明中心のちょっと高踏的な詩のグループ
YPCで「外来者の歌」が絶賛された (一七歳)

利夫は詩人になるため  法政大学仏文科予科を受験 
合格するが入学二か月で退学 経済的理由もあるが 
ランボーは一七歳でパリに出て パリを席巻した 
六年間も大学生活していてはランボーになれない 
 が主な理由 三年間は就職はせず 詩作に励むを宣言

詩雑誌『ラッパ』を発行 (一八歳)
「埃(ほこり)の中の童話(メルヘン)だ」「あそこの露地にかくれたのは」を発表
そのシュルレアリスムの手法を駆使しての作品に 
北川冬彦 草野心平たちなど
中央詩壇の詩人たちの称賛をうける
その詩人たちの中で大島博光は 利夫に変革詩人の資質を見いだし 
「あなたのラッパを民主革命の進軍ラッパに」と激励
利夫は中央詩壇の呼びかけには振り向かず
三鷹の大島の家を訪ね
利夫と大島博光との交流はここに始まる

だが 飢餓と混乱の中で 次第に明らかになる 
生き残ること そして未来を語るには 
それは 労働者の立場に立つこと
そして 科学的社会主義を身につけること 
マッカーサー「日本は不敗の反共防壁」と声明 
再び迫り来る戦争の危機
これを防ぐには 日本共産党を守るしかない 
その危機感が 二人の入党への動機
一九四八年十一月 利夫日本共彦党仁入党(一八歳)

所属した桂菅村細胞では 供出補正闘争の最中 
耐えられない米の供出割り当てに 農民が起ちあがる
全県の注目をあびるたたかいだったが 
孤立し 中農が動揺して離脱し
最後まで残った農民の家を 
五○人の警官が襲い米を強奪したたかいは敗北 
最後まで農民とたたかった利夫の目は 
赤城南麓 戦後の農地解放からも取り残された 
大胡町 宮城村の半プロ 貧農たちに注がれる 
そこには 農民たちのうめき声 憎しみの目が燃える 
利夫は 日夜赤城山麓の半プロ 貧農たちの間を駆けめぐる 
農民たちからは期待 党内からは注目されながら 
利夫は ついに肺浸潤で倒れる

利夫は病床にあったが
戦後勝ちとった民主主義的成果に対する攻撃 
民主化を牽引してきた国鉄労組には 
下山事件・三鷹事件 松川事件をおこして大量首切り 
朝鮮戦争が始まり 警察予備隊が作られ
そうして レッドパージはじまる

電産労組は国鉄労組後退の後
全国の労働運動を引っ張ってきた労組 
  群馬の電産はその中でも もっとも戦闘的な労組
利根川上流の各発電所には みんな共産党の細胞があった
その群馬電産労組が ストライキ一つ打てずに敗北
労働運動はどうなる
日本の民主化はどうなるのだろう

そうして 日本共産党への弾圧がはじまる 
中央委員の公職追放 機関紙アカハタの発行停止 
この中で ソ連スターリン 中国共産党の干渉で
党は主流派 国際派に分裂 
主流派は 少数意見を排除し
党の半非合法化をしながら党の多数を組織し 
極左冒険主義路線を目指す 
群馬の党は 丸ごとその傘下に 
利夫の友人がいる東大 早稲田では細胞解散
友人たちは
党を離れるか 主流派に属するか 主流派と対立するか
利夫は 東大 早稲田などの友人と
 絶交するか 敵対関係になるか

病気が回復した利夫は
赤城南麓のオルグはあきらめ 文化運動を担当する 
病み上がりの利夫に 前橋を吹きすさぶ
空っ風「赤城おろし」の風は冷たい 
かつての天才少年 赤城南麓を駆け回った革命児も
今は病気上がりの失業者

おまけに いま彼が接する 党の人たち 庶民は
利夫の詩は難しくて分からないという 
そしていま利夫が訪ねていく友は 
かつての友 東大 早稲田の秀才たちではない 
高校を卒業してすぐ就職した社会の下積みのものばかりだ 
肥料工場で働く者 大学の研究助士 観光案内人 競輪選手
そして自殺未遂の 若夫婦 機械に挟まれ 右手をけがした青年 
その人たちに合わせようと 作る詩は 格調が落ち かつての輝かしさを失う作品多い 
勤労者の文学サークルを作るがそれは文学とはほど遠い

額に赤のレッテルが貼られているから どこにも就職はできない 
器用だから 失業者がよくやる ガリ版屋をやることにした 
頭を下げて注文取りもしなければならない 
でも彼は商売もうまく お得意をつかみ 
下請けを出すまでになり 気分的に余裕ができた 
レッドパージで 労働組合は骨抜き 
だが戦争の危機に学生たち青年たちが動き始める 
歌の会 読書会 各種サークル
医学部の学生 高校生 学生の反戦運動を組織 
その運動を労組の青年部に

その時 大島博光訳の
アラゴンの『フランスの起床ラッパ』が発行
「神を信じた者も信じなかった者も 
利夫に衝撃が走る
「詩人とは理論も 政治も 民衆をつかめないとき
その民衆を目覚めさせるのが 詩人の使命だ」 
 ドイツの占領下のパリでレジスタンスの中で読み継がれた 
アラゴンの詩だ。大島博光訳のその詩で
利夫の変革の詩魂は呼び起こされた

利根川は前橋の西を流れる
県庁の北から前橋公園に下り 
それを突っ切ってアカシアの林に入り 
その先のアカシアトンネルを抜けると 
古い堤防が埋まっている砂利と小石の川原に出る 
生えているのはペんぺん草ぐらい 
その先に利根川は流れている 
その周辺も 砂利と小石とペんぺん草 
その河原を こともあろうに上州の赤城おろしが吹きすさぶ
利夫はその岸辺で
民衆とのギャップに涙を流したかも知れない 
親友との離反に 胸を掻きむしられたかもしれない

だがアラゴンの詩に奮い立たされた利夫は甦った 
「ふるさとの川の岸辺に
 輝くものは涙のつゆ
 色紅く 花咲くものは裂けた心
 言葉低く われらの月日は重く流れる
 ふるさとの川の岸べに」
  と歌いだす 
そして朝太郎がうたった前橋の街 
零細座繰り製糸工場の煙突が並び貧しい人々の住む街
自殺未遂の若夫婦が住み 
利夫の詩は分からないと言った人たちの住む 
この街をうたう 
「われらの街は ささやきに充ちー
 花から花へ 吹き流れる花粉のように
 家々の扉を結ぶささやきに充ちー」

それらの詩を載せたサークル詩「花」を大島博光に送る利夫は 
大島さんは「ふるさとの川の岸辺に」を 
「日本ヒューマニズム」詩集に推薦する

「ふるさとの川の岸べに」は注目を浴びるが 
利夫はこの詩に満足できない 
抒情に流れている 祖国の危機にあって詩人の任務は
「理論も政治も民衆を起ちあがらせられないとき、
 民衆を目覚めさせるのが 詩人の任務だ。
 俺の詩は 祖国の危機にこたえられる詩ではない」
 と利夫は詩と絶縁し、
かねて要請されていた共産党の第一線の任務に就く

朝鮮戦争は拡大し アメリカの占領下日本の軍国主義化は進む 
その反動政治の防波堤 日本共産党は分裂し 
ソ連共産党・中国共産党の干渉に屈服した主流派は 
危険な極左冒険主義路線を進む 群馬の共産党組織もその傘下 
矛盾をはらみながらも その党でたたかうしかない
それを利夫も選択し 中毛地区ビューローの 
 青年・学生対策 文化運動対策に就く
わたしは 地区の合法面の活動 
 労働運動もレッドパージの痛手から立ち直り始め 
 党の指導する労働運動も極左的になり 
 前橋警察署前での労働組合員と警察官の大乱闘事件 
 利根工業事件などを経て 中毛地区ビューローの指導部員 
 利夫もビューロー指導部員に抜擢 (二四歳)
 当時地区ビューロー員は五名で構成 兄弟でその部署に就く

当時の党の地区機関を支えていたのは 
二○歳から二五歳の青年 
五○年党分裂 極左冒険主義路線に 矛盾を感じながらも 
この党の組織でたたかう以外に 
アメリカ占領軍と日本政府の進める軍国主義化
朝鮮戦争への加担を阻止する手段はない
党の統一 路線の正常化も たたかう中で解決できるだろう 
という思いは抱いていた
群馬の党組織には極左冒険主義に対して 批判的な見方があり 
徳田・野坂が北京に亡命した後 実権を握った志田重男からは 
右翼日和見主義とのレッテルもはられた

利夫は地区ビューローに抜擢されるや ただちに頭角を現し始めた 
当時の党は レッドパージで破壊された経営の党組織の再建が 
大きな課題だった 
前橋では総評系の地区労組織さえ解体という状況だった 
その組織を社民の
労組幹部との協力で再建しながら 
党は国家公務員・地方公務員などの党組織の強化 再建をすすめ労働運動 
前進と経営党組織の強化・再建を前進させた
その取り組みの中で利夫は目を見はるような活動をした

利夫は一年で地区ビューローキャップ (二四歳) 
すると 独自な平和運動を開始 週刊「平和ニュース」を発行 
主流派共産党は極左的な民族解放運動で矛盾拡大 
平和運動を軽視したことを自己批判 利夫の「平和ニュース」を評価

利夫は理論的にも高い若いリーダーとして 全国的に注目される 
一年未満で地区ビューローキャップから県ビューローに抜擢 (二八歳)

ようやく 党は統一を回復 
主流派共産党六全協 極左冒険主義自己批判 党の統一を決定
統一を回復した日本共産党は新しい前進を開始するが 
旧徳田派の組織の者への批判が起こり 
群馬の県ビューロー 
地区ビューローの役員達にも
 批判が向けられる

利夫は党が正常に戻り 自分の責任も果たせたので 
群馬県委員会指導部委員を辞任し 詩に専念したいと決意するが 
五○年党分裂、極左冒険主義対しては無傷の利夫は 
党内外の期待も大きく 指導部の職務を継続するよう強く要望される 
 そのため 指導部にとどまらざるをえなくなり 
 その任務の中での 詩作を模索する

統一を回復 正常の戻り前進を始めた党で 
利夫は県委員会のリーダーとしてだけでなく 
全国的な立場での若いリーダーとしての要請が強くなり 
関東地方委員会議長などの自宅への訪問をしばしば受け 
今まで党の任務を遂行しながら詩作を心がけていた利夫も 
人生の岐路に立っていることを自覚しはじめていたようである 
口には出さなかったが、党と人民への責任、詩作への思い 
迷いもあり、大島博光宅を訪れたこともあったようだ

それと共に六全協後 詩作への情熱と共に 
彼が少年期に魅せられた 登山への情熱も甦えった 
彼はきわめて知的論理的なリーダーと見られていたが 
 彼のあの優れた政治感覚 大胆な行動力の背後には 
 詩への情熱、山へのあこがれが 
  エネルギーとして燃えていたのかも知れない

利夫は 政治的にも全県 中央からも最も期待されているとき 
谷川岳一の倉沢第四ルンゼ単独登山中 天候悪化し墜落死亡した
利夫が谷川岳登山の当日 大島博光さんが
利夫に再び詩を書くようにと
前橋の共産党群馬県委員会の事務所を訪ねて 
 大島さんと利夫との運命的なつながりを感じさせる

利夫の死が伝わるや 
彼の仲間はもとより彼を知るすべての人が 呆然落胆 
この嘆きの中で 彼が書き残した十一冊の詩のノートが発見される 
そこで遺稿詩集「夜通しいっぱい」が刊行され 全国的に注目された
そういう中で
 「日本共産党は 島田利夫のような詩才のある者に共産党の重責を担わせ
 あたら才能を殺してしまった」
 という非難が 詩壇の中だけでなく群馬県内でも起こった 
これに対して 大島博光は
 群馬の「夜通しいっぱい」発行記念集会で
「彼の詩は、革命家としてのたたかいと詩作が分かちがたく結びつき あの現実変革の詩を作りあげているのだ」
 と島田利夫のその生き方と詩作の態度を評価し 島田利夫が世界のそして日本の進歩的詩 変革の詩の流れを受け継ぎ発展させた詩人であると強調し 日本の詩の流れの中に島田利夫の詩を位置付け 受け継がなければならないと訴え 参加者の大きな感銘を与えた

わたしはいま
 秋の真っ盛りの中に建つ大島博光記念館の庭に立っていた
 そうして 大島さんと利夫の
 運命的な出会いは何だったのかを考えていた 
大島さんと利夫との交流のことを考えていた 
 それは何だったのだろうか 
大島さんが訴え続け 島田利夫が受け継ごうとした 
 革新的 変革的な立場の詩への共感 
「思想が 政治がまだ民衆をとらえられないとき 
 民衆に呼びかけ 民衆を目覚めさせ
 民衆を立ち上がらせるのが 詩人の使命だ」 
それを大島さんは利夫に呼びかけ
 利夫はそれにこたえようとしたのだろう

いま 秋のまっただ中
 紅葉の山々に囲まれた大島博光記念館にも 
 ようやく 夕闇が迫ろうとしていた 
私は やがて大島記念館の館長に送られて
 この地を去ろうとしていた。
 わたしがここに再び訪れることは ないかも知れない 
島田利夫を背負って 背中に大島博光の激励を受けながら 
わたしはこれから なにをしなければならないのだろうか 
大島博光記念館の人 長野の詩人会議の人たちに別れの挨拶をし 
 私は 長野を去ろうとしていた

私の帰る群馬は
 ここと違って気候も 烈風が吹きすさぶ荒々しいところだし 
 人の声も 荒々しく気風も荒々しい
群馬県庁がある 元厩橋城の西に 日本最大の利根川は流れている
ここ長野の千曲川などとは違って
 波は荒く 水は薄墨色 流れは速く 板東太郎の異名をとる

私は帰る
 このままではいけないのだと思いながら

私は思う 大島さんが生涯をかけて伝えようとしたもの 
島田利夫が 若い生命のすべてをかけて 受け継ごうとしたもの
 進歩的 変革の詩
  これを だれに どう伝えようかと

 わたしは 大島博光記念館を去る
 ようやく夕闇が迫る長野をあとに
 黒い背を波立たせながら 利根川が流れ
  赤城おろしと呼ばれる烈風が 吹き荒れる群馬に向かって

大島博光 島田利夫が命をかけた
 進歩的 変革の詩を伝えに
  いま 二一世紀 新しい市民革命の息吹が沸騰する

群馬に向かっていや日本に向かって

嶋田誠三


嶋田誠三

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