ドキュメンタリー「シルク岡谷 製糸業をささえた工女さん」

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3月21日、テレビ信州で放送されたドキュメンタリー「シルク岡谷 製糸業をささえた工女さん」は昭和初期の
工女さんの様子がわかって興味深かった。

昭和5年、岡谷にいた工女の数は三万四千五百人で、岡谷の人口7万の半数を占めた。
最新式のフランス式紡糸機を導入して操業していた。
今も残っている工場で実際に糸取りする様子を放映、両手を使って繭5本からひき糸を束ねて1本の生糸を作る作業がわかりました。全くの手作業なので、手際の良し悪しが品質や生産高に直結したのでしょう。

横浜港の氷川丸が登場、アメリカへの生糸輸出に使われていた。船には生糸を大切に保管する場所が。
横浜開港資料館のインタビューでは、横浜港の開港時から生糸輸出がされたといいます。長野、群馬、福島、山梨からの生糸が多かった。

「野麦峠祭り」はいまもおこなわれている。正月休みのために12月から2月の真冬に野麦峠を越えた。昭和54年の映画「ああ野麦峠」や「女工哀史」では悲惨な面が強調されているが、実際は違った、喜んで仕事に行ったといいます。
16歳から18歳が一番多かった。労働時間は当初は12時間から14時間、盆踊り、運動会、文化祭、歯磨き体操、裁縫教室などが行われた。給料は月給7.2円で、当時の教師の初任給10-13円だったので、かなり良かった。十円工女、二十円工女、百円工女などと言われた。百円で平屋の農家1−2建たつくらいのお金だった。
楢谷は米が取れない地域で、ひえごはんを食べていたが、岡谷にでたら白い米が食べられた。

梨本八重さん(91歳 野麦)のインタビュー:
昭和15年から3年間、岡谷ではたらいた。片倉は服装が決まっていた。黒い服に白いえり、女学生のみたいだ。外出して汽車で、お客から「どこの女学校か」ときかれたので「煙筒女学校」といった。楽しかった。検番からはバツをだして叱られた。泣いていると慰めてくれた、いっしょに糸を作ってくれた。そのことが思い出。

宮崎やえさん(98歳 下伊那郡松川)インタビュー:
14歳から岡谷に働きに出て糸取りをした。エンゴ、目たながあった。片倉の分工場は300人。映画をよんで、体育館で上映してくれた。

シルク岡谷


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