詩集『不寝番』 まえがき

ここでは、「詩集『不寝番』 まえがき」 に関する記事を紹介しています。
 まえがき

 不寝番は、われわれのまわりに起こる事件にたいして、ぼんやりとまどろんでいたり、少しでも眠気に気をゆるめたりするわけにはゆかない。もしも夢があるとすれば、それは現実世界のうえに大きく眼をひらいて、未来をつくりだすものをはっきりと見すえての夢であろう。
 しばしばわれわれを襲い、ゴヤの版画にもよく描かれた、あの有名な「理性の眠り」に負けないようにしよう。
 不純な詩、非純粋詩 poemes Impursは、もろもろの事件、つまり体験された歴史が、われわれの内面生活に与える反響から生まれ、また状況の記憶から生まれる。この記憶は、一度経験されると、われわれが秘守しようとするプライべートな生の領域にまで忍びこむ。
 長い射程をもつ状況はわれわれを包囲し、われわれの感性、精神、心の世界の大部分を構築する。それはしばしば、われわれの個人的生活の内密の動きよりも強力であって、われわれの個人的生活に生彩を与える。
 いったい、われわれの歴史的な、政治的な、社会的な環境に起こる事件から切り離 され、他者を受けつけないような「自我」というものを誰が想像できよう?
 こんにち、歴史が、われわれ現代の歴史が、人間への信頼を大いに狂わせ、冷酷破廉恥な世界を出現させて、おぞましく残酷に生を破壊しているとき、誰がこの苦境から巧みに脱け出せると想像できよう?詩においても然り。この詩集に収められた これら日付けのついた詩は、年表の概要をめざしたものでもなければ、いささかも自叙伝的野望をもったものでもない。
 恐らく、われわれめいめいの中には、内なるバリケードともいうべきものが存在するにちがいない。──それは変質することのない詩の生まれる場所でもあろう──この内なバリケードとは、受け入れがたいものを拒否することであり、耐えがたいものにたいする反抗である。そこから、もう黙ってはいないという欲求が生まれ、言葉においても行動においても、人間的尊厳の名において、互いに理解し合おうという欲求が生まれてくる。それは、それだけで幸福にふさわしいだろう。生にふさわしく、 無限に詩を歌い継ぐ、それは人類のいかなる次元をも排除するものではない。とりわけ、われわれと他者たちとの、われわれとわが都市との、多様で豊かな関係に心ひらくものを排除するものではない。そしてそれは世界におけるわれわれの存在・役割を豊かにするのである。
 ここでは、絶望はなんら恥じることがないという論拠をもたない。個人は自己喪失 の道を遠く行くことも可能である。だが確かなことは、われわれをつらぬく人間性の 概念は絶えざる闘争によって豊かになり、生への自発的な肯定のおかげで、「真の生」を求める大胆な想像力のおかげで豊かになる。
 われわれは遠くからやってくる、また遠くから戻ってくる。われわれは遠くへやってゆく。幻想と幻滅から、挫折と敗北から、屈辱的な破局から、われわれは立ち上がって絶えずわれわれの地歩を闘いとらねばならない。よりよく生きるために、可能にみちた長い道のりを一歩一歩進まねばならない。勇みたつ一歩はつねに未来とその希望を暗示する。
 詩は、警戒する義務をもつように、ほめ賛える義務をもつ。いかなる時にも、もっとも歓迎されるべき人類の顔を明らかにすることが重要である。


 (ゴーシュロン詩集『不寝番』)

ゴーシュロン

関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/2872-6f71685b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック