蜷川譲『フランス文学散歩』冒頭─ピアノ演奏と文化的環境

ここでは、「蜷川譲『フランス文学散歩』冒頭─ピアノ演奏と文化的環境」 に関する記事を紹介しています。
フランスの田舎で聴いた素人の男性のピアノ演奏が日本の大家の演奏よりも素晴らしかった。その原因は文化的環境と伝統の違いにあるという。

 私は読者にフランス文学理解の手引として、まず、フランスへ案内したいと思う。私の目的は文学を通じて読者に眼を見開き、胸を大きく張って自由の精神を呼吸してもらうことにある。旅行には地理的方法の名所見物、視察という名の行楽、スリルを追う探険……等々あろうが、フランス精神の真髄に触れうるものは文学散歩以外にはないと信ずるからである。
 私の印象から始めよう。
 フランスのある田舎で即興に演奏された、ベートーヴェンのピアノソナタ一〇一番が素晴らしかったことは、今だに記憶に新たである。この演奏者であった半ば白髪のその男は、毎日一時間ずつ、楽しみのためにピアノに向っている一素人である。
 その後、日本に帰ってから「べートーヴェン連続演奏会」という名の下に行われた老大家のリサイタルに足を運んだ時、その音楽性の稀薄さにひどく失望し、フランスの一老爺の優れた演奏を思い出したものである。
 文学者ジィドのショパンや、ロランのべートーヴェン演奏などは、素人の域をはるかに越えたものであったことはよく知られているが、フランスでは近隣同志の間で、ちょっとピアノが弾けるといわれるほどの人の水準が素晴らしく高度なことは一驚に値する。 音楽を育くむ環境とその伝統の集積、一口にいえばその継承の度合いの相違であろう。
 日本では、今日まで驚くほど大量にフランス文学が紹介され、そのことだけを限ってみれば、世界有数の国であることはたしかであろう。フランスのある日本通の学者は「ピレネー山脈以西(スペイン、ポルトガルなど)はヨーロッパではないが、日本は西欧文化圏の国である」とさえ断言している。たしかに翻訳書物の発行数から言えばうなずける点もあろうが、はたして、個々人のフランス文学愛好の熱意とあわせて消化の度合とが一致するものかは疑問である。
 文学に限らず芸術作品は愛し親しまれ、文字通り熟読玩味され、その人の生活に融けこんでこそはじめて真髄に近ずきうるのである。

(蜷川譲『フランス文学散歩』<1 生きた知恵は泉のごとく>現代教養文庫 1959年)

フランス文学散歩

関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/2862-c2050a9d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック