ランボオ「看護婦(みとりおんな)」=「慈善看護尼」について西條八十が解説

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ランボオの「看護婦(みとりおんな)」(「慈善看護尼」)について西條八十が『アルチュール・ランボオ研究』で解説しています。西條八十はランボオの初期詩篇の恋愛詩には「異様なことに、清純な恋愛詩はまったくない。あまりにも、肉感的な作品ばかりである。」と述べて、「七歳の詩人たち」「音楽につれて」「最初の宵」「みどり亭にて」「いたずら好きな女」「ニナの返答」「小説」「冬を夢みて」「水から出るヴィーナス」「慈善看護尼」を取り上げます。

 一八七一年六月、すなわち「見者の書翰」の書かれた直後の作である「慈善看護尼」は、やはり女性を憎悪した作品であるが、描き方が一層鋭く、女性特有の醜悪さを持って現世の醜悪さの象徴としているのではないかと思われる。

若者、その眼は輝やき、肌は栗色、
やがて裸わになろうとするはたちの美しい肉体
額に銅の輪をはめ、月光のもとで、
ペルシャでは、未知の天才が うっとり見とれたでもあろう、
童貞の、ほの暗い優しさとともに
はげしく、最初の恍惚をほこらかに、
ダイヤモンドの床のうえをまろびころがる
夏の夜の露は若い海にも似て

若者は棲みにくいこの世を前に、
こころのなかで おののき、大きく苛立ち
永遠の深い傷にみちて、
看護婦(みとりおんな)を欲しはじめる。

しかし、おお、女よ、臓腑のかたまりよ、
 甘美な憐れみよ、
おまえは決して「看とり女」ではない、決して!
その黒い眼差しも、焦色の影の眠るその腹も、
その軽やかな手も、みごとに盛り上がった胸も、

 このランボオ自身であろうと思われる美しく純粋な青年は、ちょうど「盗まれた心臓」の中で触れたような幻滅感を現世に対し味わっている。彼は深く傷ついたこころに慰籍を与えてくれる《慈善看護尼》のような母性的な女性を求めるが、同時に彼女たちにそれだけの能力の無いことを批難する。

大きな瞳をもちながら 開くことなき盲者(めくら)よ、
おれたちの抱擁はすべてひとつの疑問にすぎぬ、
乳房をもちながら、
 おれたちによりかかるのは おまえだ、
愛すべき重い情熱よ、
 おれたちがおまえを慰め、なだめるのだ、

おまえの憎悪、おまえの凝りかたまった茫然自失、
 おまえの悶絶、
そして、かつて、苦しみ悩んだ むごたらしさ
おまえはおれたちにすべてをかえす、
 おお、しかし、悪意なき「夜」よ、
毎月おまえが迸ばし流す、あふれる血のように
一瞬、みごもった女を恐怖せしめる時、
「美神」と燃える「正義」とが来て
かれらの厳かな妄念から「恋」を引き裂く、
   若者を苦しめる、

 しかし、《女にも思想にも慈善看護尼がいないとはみじめなことだ》(一八七一年、四月十七日附ランボオよりドムニィへの書翰)。結局これは世の女たちが、今、男の弄み物に過ぎないことを自認してしまっているためである。
 だが、この青年はこの世の《慈善看護尼》を否定しながらも、現実を越えたところに孤独を癒してくれる彼女を求める。

かれは、胸えぐるような孤独が
 自分のうえをよぎるのを感ずる
そのとき、いつも美しく、死をも恐れず、
真理の夜をとおして、はてしない さまよいと夢を、
茫漠たる果てに信じたいのだ
若者はそうして、その魂のなかで、その病める手足で
 おまえを呼ぶ、
おお、神秘な死者、おお、慈愛の姉妹よ!
             看とり女

 この詩篇の結びで、ランボオはおのれの孤独を癒してくれるものは彼女──すなわち死以外に無いことを告白している。
 わたしはこの詩の死への請願を読む者は、自然に、先人ボオドレールを想起し、殊にその「貧しき者の死」などの作品を想起するに違いないと思う。……


(西條八十『アルチュール・ランボオ研究』中央公論社 1967年)
※詩は大島博光訳「看護婦(みとりおんな)」を援用

ランボオ研究

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