一八七一年三月十八日(下)

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三月十八日のコミューヌ勝利のニュースがシャルルヴィルに伝えられたのはその翌々日であった。「三月二十日、ランボオは驚くばかり晴れやかな眼をして現われると、〈やったぞサ・イ・エ!〉と言った」─とドゥラエは書いている。ランボオはじっとしていることができず、ドゥラエをうながして外に出た。髪はぼうぼうとのび、眼を輝かせ、勝ちほこった足どりで、彼は口走った。「やったぞ!  秩序が敗けたんだ!」いつもは控えめな彼が労働者たちに話しかける。「きみ、奴隷暮らしはおしまいだ。人民が武器を執って立ち上ったんだ。自由がやってくるぞ、進歩や正義といっしょに!」
  ドゥラェがまたランボオの言葉として伝えているつぎの言葉は有名なものである。
 「打壊しが必要なんだ……伐り倒さねばならぬ樹もある。そのほか幾世紀にもわたる樹蔭もあるが、われわれはそこでの懐かしい習慣もなくすことになる。この社会にだって、斧をいれて伐り倒し、つるはしでおこして、地ならしのローラーを転ばすことになろう。『すべての谷は埋められ、すべての丘は低められ、曲りくねった道はまっすぐにされ、凸凹の道は平らにされるだろう』財産は平均にされ、個人の倣慢はうちくだかれる。〈おれがいちばん権力家で金持ちだ〉などといえる者はいなくなるだろう。ねたみや阿呆らしい讃美に代って、平和な協調と、平等と、みんなのためにみんなが働くという時代がくるだろう……」
 パリで燃えあがっている革命に駆けつけようという思いが彼を離れなかった。それにコミューヌの国民軍が日給三○スーで義勇兵を募集していた。 四月二十日頃、ランボオはパリへ向かったと考えられる。いつものように彼は徒歩で、一日に三○キロから四○キロを歩いてゆく。こんにち「ヒッチ・ハイク」と呼ばれるものを彼も実行する。通りがかった馬車をよびとめて乗せてもらうのである。四月二十三日か二十四日に彼はパリに着いた。徴兵センターで彼は歓迎され、彼のためにカンパが集められる。軍帽のなかに集まった金は二一フラン一三スーだった、とドゥラエは書いている。彼はバビロン兵営の義勇兵遊撃隊に入れられる。兵営には、職業的な兵士、労働者、アルジェリア歩兵、国民軍兵士、海兵などが、ごちゃまぜに詰めこまれていた。こうしてある朝、入墨をした男たちや義勇兵たちの兵舎のなかに、ランボオは眼をさました。外出もできた。フォランという名の同じ年頃の若者といっしょに、彼はパリを歩きまわる。彼が小さなノートに「共産主義憲法」を書いたのは、恐らくこの兵営においてである(このノートは見つかっていない)。
 しかし、ランボオはまもなく兵隊たちとの接触に、吐気のするような嫌悪をおぼえるようになる。噛みたばこ、酒びたり、猥談……兵隊たちはそこから抜けられなかった。彼らの卑猥さ、猥せつ趣味にランボオは耐えられない。四月末、彼は兵営の生活を放棄することになる。彼はこの幻滅をひとつの詩のなかに表現し、この詩を「盗まれた心」「道化師の心」また「責苦にあう心」と名づけている。彼は英雄になろうとしたのに、ひとりの道化師にすぎなかったというわけだ。「パリ戦争の歌」が書かれたのもこの頃である。(この項おわり)

  (新日本新書『ランボオ』)

パリ・コミューン


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