一八七一年三月十八日(中)

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 このパリ滞在中の生活は悲惨なものであった。デムニ宛の手紙では「ぼくはそこでグラティニの〈赤い鉄〉と〈新しい懲罰〉を読んだ」と書き送っている。それらは過激なパンフレットであった。ランボオはまた、「人民の叫び」紙上のヴェルメルシュの論説に心動かして、彼に会おうと努めている。ヴェルメルシュはのちにコミュナールとなるジャーナリスト・詩人である。

 ランボオがパリで惨めな生活を送った日日は、またパリ市民にとってもきわめて暗い日日であった。パリの民衆は、戦争によって裏切られた後、こんどは反動政府が革命を怖れて締結した講和条約によって裏切られた、という怒りの念を深くしていた。講和条約の署名につづいて、支払停止令(モラトリアム)の廃止が決まる。肩の荷をおろした保守主義者たちは、臆面もなく満足を表明する。パリから逃げ出していた多くのブルジョワがもどってくる。保守的なゴンクールさえ書いている。
 「奇妙な行列、ポン・ド・ヌーイの橋を渡って帰ってくる、男、女、あらゆる人たちの行列。みんなが必需品の鞄や袋をぶらさげ、ポケットは食料品でふくらんでいる。肩に五、六羽の鶏をかついだブルジョワもいれば、二、三匹のウサギを持っているのもいる……」(二月七日付の「日記」)
 一三○日もの間、ドイツ軍に包囲されていたパリは、窮乏のどん底にあった。鶏やウサギを持って帰ってきたのは金持ちのブルジョワだけであった。国民軍の兵士の日給が一・五○フランであった時、チーズ一キロが六○フラン、豚肉一キロ四四フラン、猫一匹一五フラン、鶏卵一個二・ 七五フラン、鼠一匹二・二五フラン……つまり猫や鼠まで食べたのである。─これがランボオの見たパリである。

 一八七一年三月十八日、この飢えたパリのバリケードのうえに、パリ・コミューヌは立ち上った。その日パリ市民は、市民の醵金によって造った大砲をヴェルサイユ軍が奪うことを拒絶して立ち上ったのである。ティエールは恐怖にふるえてヴェルサイユへ逃亡し、コミューヌは権力を獲得する。世界最初のプロレタリア政府である。
 三月二十八日、パリ市庁前の広場でパリ・コミューヌ成立を宣言する人民集会が開かれた。その日の光景を、コミューヌの革命的ジャーナリスト・作家であったジュール・ヴァレースは 「人民の叫び」紙に書く。
 「なんというすばらしい日だろう! 大砲の口を金色に染めている、すがすがしくて明るい太陽。この花束の匂い。この林立する旗のはためき。青い川のように、静かに美しく流れる、この革命のつぶやき。このわくわくするようなうれしさ。この明るい光り。この金管楽器のファンファーレ。この銅像の照り返し。この希望の明るい炎。この光栄のこころよい雰囲気。そこには、勝利した共和主義者たちの軍隊を、誇りと歓喜によって酔わせるに足る何ものかがあった。
 おお、偉大なパリ!
 ……これから何が起ころうと、おれたちがふたたび敗れ、明日は死なねばならぬとしても、 おれたちの世代は慰められた。おれたちの二十年にわたる敗北と苦悩は報われたのだ。
 ラッパよ、風に鳴りひびけ! 太鼓よ、広場にとどろき渡れ!
 うちひしがれ絶望した者たちの息子よ、きみは自由な人間になるだろう!」
 勝利した人民の歓喜を、ヴァレースは精いっぱい歌いあげている。しかしこの歓喜の日は長くはつづかなかった。
 (なお、パリに出てきたランボオは、このヴァレースが発行していた新聞「人民の叫び」紙を読んでいる。ヴァレースは時にランボオより約二十歳年長の三十九歳であった。ヴァレースはコミューヌ敗北後、ロンドンへの亡命に成功し、パリ・コミューヌを自叙伝的に描いた小説『蜂起者たち』〈一八八二年〉を書いている。)
 ティエールとボルドー議会、及び正規軍もヴェルサイユに移る。そして四月二日以来、ヴェルサイユ軍はパリ郊外に砲弾の雨を降らせる。(つづく)



  (新日本新書『ランボオ』)

コミューン

パリ市庁前のコミューヌ宣言


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