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わたしを変えてくれた党 

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   第17回多喜二・百合子賞 受賞の感想

 わたしを変えてくれた党 
                      大島博光

 こんど、偉大な党員作家小林多喜二と宮本百合子の名称をもつ文学賞を、詩集『ひとを愛するものは』によって受賞して、わたしにはこの上ない光栄である。わたしはまずこの悦びを妻静江とわかちあって、彼女に感謝しなければならない。こんにちわたしがあるのも、詩を書きつづけることができたのも、彼女の力強い支えのおかげによるからである。
 わたしがいつも映画のひとこまのように思い出すイメージがある。冬枯れた山の村の斜面の道を、小さな赤旗をおし立てて若者の一団が革命歌をうたいながらつき進んでゆく……。たしか一九四七年の戦後二回目の総選挙のときのイメージである。そのときわたしは信州の松代にいて、若い同志たちといっしょに周辺の村村を選挙闘争の演説をしたり、集会をひらいてまわって歩いた。まだ自動車(くるま)も何もない時代であったから、あのような牧歌的(?)な、叙事詩的なイメージが成り立ったのかも知れない。そのときの燃えたつような高揚と希望をわたしはいまも忘れることができない。そればいわば、わたしの戦後の出発の原体験となった。
 そのとき三十六歳だったわたしは、詩人として新しい一歩から始めなければならなかった。日本プロレタリア詩の伝統に学びながらも、しかしそれは手さぐりに近かった。それまでの現実から遊離した発想や観念的な思考のならわしをレアリスムの道へ変えてゆくのは容易なことではなかった。
 結局、詩を変えるには、おのれの人間を変えるほかに道はなかったのである。わたしは『ひとを愛するものは』の「あとがき」に書いている。
 「わたしが……資本主義社会では人間は人間にたいして狼であること、『肝腎なのは世界を変えることである』(マルクス)ということなどを多少なりと理解しうるようになり、多少なりと詩をたたかう武器とし、状況の詩、政治詩を書くことができるようになったとすれば、それは党のおかげであり、そこに党があったからである」
 こうして、それまで嘆きの歌ばかりうたっていた詩人は、狭い内面だけの世界からぬけだし、たくさんの同志たちのなかのひとりの人間となることができた。
 そしていま、新しい展望と確信をもって平和の詩を書くことができるようになったのは、平和の「日ソ共同声明」にはげまされてである。まことに「日ソ共同声明」はわが日本共産党が、先見性と先駆性をもってイニシアチィヴを発揮した歴史的な出来事ということができる。この党に、わたしはいま「平和の党」という詩をささげる。

 眼に見えない 空の道のような
 平和の道を
 党は 探しだした
 すぐれたパイロットのように

 険しく きびしい前人未到の岩山に
 ルートを見つける登山家のように
 党は 核廃絶の道を切り拓いた

 おお 平和の党よ!
         一九八五年二月


 大島博光(おおしまひろみつ) 一九一〇年長野県に生まれる。一九三一年、早稲田大学文学部フランス文学科に入学。一九三四年、卒業論文に「アルチュール・ランボオ論」を書く。一九三五年から西条八十主宰詩誌『蝋人形』の編集にあたる。戦後フランスやラテンアメリカの革命詩人の作品翻訳にたずさわる一方で、一九六一年壷井繁治らと詩人会議結成に参加。訳詩集に『ランボオ詩集』『アラゴン詩集』『エリュアール詩集』、著書に『パリ・コンミューンの詩人たち』『愛と革命の詩人ネルーダ』『レジスタンスと詩人たち』など。現在は詩人会議運営委員、日本民主主義文学同盟員。

   (『赤旗』1985年2月20日)

赤旗


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