ランボオ──恩師イザンバール・「鍛治屋」(上)

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 恩師イザンバール・「鍛治屋」

 中学(コレッジ)の頃のランボオは、背の低い少年であった。ちょっと上向きの鼻で、髪は明るい栗色で、青い眼をしていた。「世にもやさしい眼」とドゥラエは書いている。その瞳は「つるにち草のような青色の濃い輪にとり巻かれていた」ランボオは背の低いことに劣等感を抱いていて、「チビ!」と言われるのをきらっていた。身なりもきちんとして、こぎれいで、髪にポマードをつけていた。黒い上着、灰色のズボン、のりのついた白いカラーをつけて、ドゥラェによれば「非のうちどころのない」身なりであった。
 ところで、ドゥラエの証言によれば、第四学年のとき、ドゥラエ(十四歳)がランボオ(十三歳)に「一八五一年十二月二日のクーデターをどう思うか」とたずねると、彼ははっきりと答えたという。「ナポレオン三世は囚人船行きがいいところだ」と。
 またランボオは、宿題の作文のなかに書いた。「ロベスピエールよ、サン・ジュストよ、クートンよ、若者たちはあなた方を待っている」
 一八七○年の初め、修辞学の教師ジョルジュ・イザンバールが新たに赴任してきた。彼は学校を出たての二十一歳の青年で、詩を愛し、当時ガンジー島に亡命していたユゴーを愛し、時の皇帝ナポレオン三世を憎悪する共和主義者であった。彼はまもなく、異常な天分にめぐまれた少年ランボオに注目する。彼はランボオの詩的天才に驚嘆して、詩の道へとランボオをはげますようになる。彼は教室において教えるだけでなく、放課後もランボオといっしょに散歩しながら話しあったり、いろいろの本を貸し与える。ラブレー、ユゴー、ボードレールなどとともに、プルードン、ルイ・ブラン、ミシュレなどの社会主義的な本がランボオの手にはいる。 ランボオはたくさんの本を読みあさり、町の図書館にも通う。
 その時代のブルジョワの母親たちと同じように、ランボオ夫人もまた、詩のもつ危険な力を思い知ることはできなかった。彼女にとって詩などというものはなんら危険のないものであった。しかし、ランボオがユゴーの小説『ノートル・ダム・ド・パリ』 を読んでいるのを見つけると、彼女はイザンバールに激越な手紙を書く。「子供に読ませる本を選ぶには用心深くなければならない、ということを、先生はわたくしなどよりもよくご存じのはずです……」彼女は『ノートル・ダム・ド・パリ』を『レ・ミゼラブル』と思いちがいして、自分の息子をユゴーのような危険思想をもった作家の共犯者にしないでほしい、と責めたてたのである。 ランボオ夫人はユゴーのような文学を読むことを禁じたが、少年はイザンバール先生のところへ本を読みに行くことで、母親に反撃した。先生は留守のあいだ、部室の鍵をランボオにあずけていた。
 イザンバールはシャルルヴィルにやってきて、二人の男と知りあいになった。レオン・ドヴュリエールとポール・オーギュスト・ブルターニュの二人である。前者はロッサ学院の教師で、気前のいい、楽天的で行動的な大男であった。後者のブルターニュは変り者で、音楽家で、すぐれたヴァイオリン奏者であって、自分の家に小さな室内楽団をつくっていた。彼は教養に富み、たくさんの蔵書をもっていた。彼はまた多才で、ヴェルレーヌの言によれば、当時の酒神バッカス詩人であり、素描家であり、昆虫学者であった。そのうえ彼は大のビール党 で、プチ・ボワ街のカフェ・デュテルムで、ジョッキからジョッキへとあふって数時間を過ごしていた……。
 この二人は若いランボオにたいへん興味をいだいた。ドヴェリエールはランボオに煙草をあたえ、いろいろの本を貸しあたえた。ブルターニュはカフェ・デュテルムで、中学生のランボオを自分の前に坐らせ、ビールを前にして話もせずにパイプをふかしていた……。
 ランボオ夫人は、こうして息子がイザンバールのグループと交って、彼女のねがっている世界とは反対の思想の世界に眼をひらいていたことに気がつかなかった。
 この三人はいずれも共和主義者であり、また神を信じなかった。この二人とまじわって、ランボオは政治的反抗と同時に宗教上の反抗をもおし進める……。
 この小さなグループは反体制の新聞をよんでいた。後のパリ・コミューヌを準備していたとも言える、「ラ・ランテルヌ」(街灯)紙、「マルセイエーズ」紙などを読んでいたのである。
  ところで、このような階級制にたいする反抗は、ひとりランボオが出入りしていたこの小さなグループだけの特殊なものではなかった。当時、ナポレオン三世の帝制末期にあっては、フランスの街まちにおけると同じように、シャルルヴィルにおいても、中学の上級生と教師たちは、時局問題について、熱心に公然と議論していた。学校当局もなかばそれをみとめて、見て見ぬふりをしていた。この点についてドゥラエは驚くべき証言をのこしている。教師たちは、 歴史、哲学、文学のあらゆる科目において、異論反論を奨励していた。真の「討論会」が組織され、そこでは意識の自由から政治的自由までがみとめられ、「宗教裁判」から「小ナポレオンの十二月二日のクーデター」までが論じられた。度を越した大胆不敵な議論にも、教師たちはただ微笑むにとどめていた。校長までが討論にまきこまれることもあった……。
  このドゥラエの証言をよめば、パリ・コミューヌ前夜の躍動するような雰囲気が、シャルルヴィルのような田舎町の空気のなかにもすでにただよっていたことが察せられる。
 また、このドゥラエの話から、ランボオが中学(コレッジ)の自由闘達な雰囲気によってどんなにか励まされ、どのようにおのれの態度をきめていったかを知ることができよう。 (つづく)

  (新日本新書『ランボオ』)

イザンバール

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