島田利夫と大島博光の交流

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  島田利夫と大島博光の交流
                  嶋田誠三
 

一、島田利夫の詩と その激しく燃えた生涯

  一九二九年一一月一四日
 島田利夫は、群馬県前橋市の中心商店街の比較的富裕な商家に生まれた。当時前橋市は、長野市と共に大正デモクラシイの影響が残る地方自由都市と言われ、利夫の母が娘時代萩原朔太郎の妹と交友関係もあり、家庭には幾分自由主義的な雰囲気があった。だが利夫の少年期と青年期の前半は、戦争と軍国主義におおわれた暗い時代だった。利夫はエリート校である男子師範学校附属小学校に入学したが、身体が大きく、腕白で強情だった。四年頃より昆虫採集に興味を持ち、小学校上級になってシートンの「動物記」、ファーブルの「昆虫記」を好んで読んだが、戦争が激しくなるにつれて、兄たちの影響から文学に興味を持ち始めた。六年で県立前橋中学を受験するが失敗し挫折感を味った。

  一九四三年四月 (一三歳)
 県立前橋中学校に入学。中学に入学したものの、太平洋戦争の見通しはますます暗く、農村への学徒動員、前橋理研工場への学徒動員と、農村・工場で大半を過ごした。利夫は一年遅れて中学に入学したため同級生が子供に見え、また教育の軍国主義化に無批判な学校の空気に違和感を感じて、単独で山に登り始め、文学に傾倒して行く。文学では日本文学、西洋文学を広く読んだ。三年の時海軍兵学校受験を勧められるが、「私は戦争に反対だから受験はしない」と発言し問題になるが、名門中学校のことなので大事にいたらないですむ。だがそのことが、敗戦後の彼の学校における立場を大きく変えることになった。

  一九四六年八月一五日 一五歳)
 戦災で疎開した桂萱村(現在前橋市)で終戦を迎え、開放感を味った。ますます詩作と登山に没頭した。日本文学、西洋文学の大半を読みつくし、特にツルゲーネフ、ジード、モーパッサン、コクトウ、ランボウを読む。詩作では戦時中日本の歌人や詩人たちが戦争に追従をしたのが、日本的情緒的叙情性の弱点にあったと痛感し、ヨーロッパの近代詩、シュルレリズムへ傾倒していく。四年になり、天野譲、西村喜久夫という秀才たちと中学校文芸雑誌「桑弓」を発行。それに掲載したシュルレリズム的な詩、および大手拓次論が、県内の高校以外でも評判になり、注目されるようになる。詩作と共に文学論を確立しようとテーヌ、シュルレリズム論などまで読んだ。そうして詩人としてたつことを決意し、毎日一作づつ詩作することを実行し、北川冬彦に傾倒した。群馬では詩の初心者は普通、地方新聞の詩の投稿欄に投書したり、県内の詩の同人雑誌に参加したりするのだが、利夫はそういうものには目もくれず、自分の好む著名な詩人の幾人かに、直接厳選した詩を送っていたようだった。その中の「詩と詩論」の岡崎清一郎氏に送った詩を氏から激励され、以後岡崎氏との連絡をもてるようになった。その年四月、兄誠三は明治大学文芸科に入学、県内の文化運動などに参加。高崎に疎開していた笹沢美明氏と知り合い。笹沢氏を中心とした数人の詩のサークルYPCが誕生し、そこに利夫も参加し、笹沢氏から利夫の詩は高い評価を受けた。特に「外来者の歌」は激賞された。この頃の利夫の詩は、北川冬彦的なシュルレリズム的な主知的な詩、客観的対象の本質を明らかにするため、客観的なイメージとイメージとの組み合わせによって、詩を主知的に構成しようという詩、そして次第に社会批判特徴を強めつつあった北川冬彦のシュルレリズムから、硬質な叙情性への詩に移って行く頂点の詩だった。笹沢氏は抒情詩人リルケの研究者として名高い。氏は利夫に、日本には珍しい近代的な硬質の叙情詩を期待したのではないか。YPCは五、六人のすこし高踏的なこぢんまりしたグループで、県内の詩人たちとの付き合いはなく、二年後笹沢氏の東京の大学への復帰によって解散した。
 このように利夫は詩作に没頭する中学生生活を送っているのだが、戦後の利夫は、戦時中に反戦的な態度を貫いたことで全校の生徒に注目されるとともに、教師たちにも一目おかれる存在になっていた。終戦直後全国的に中学校のストライキが広がり、利夫が三年生の時、最上級生の四年生が、全国的な中学生ストライキの気運にあふられてストライキに入った。それで学校側も学生側も、反戦の姿勢を崩さなかった利夫の態度を注目したが、利夫はストライキが学校に対する要求も曖昧なままストライキに入ったことで、ストライキには大義名分がないと批判し、三年のリーダー的な友人たちと学年の意見をまとめ、二年一年もまとめてストライキ不参加の立場に立った。そのため、四年生単独のストは孤立し終結した。このことは、学生間に利夫の存在感を高めると共に、教師たちにも一目置かれるようになった。そして利夫は四年生になると、全校学生の圧倒的な支持で、前橋中学校生徒会長に選ばれ、卒業するまでの二年間務めることになる。
 利夫は詩人になるために、大学の仏文科に入学することを考えるが、相変わらず詩作や登山に熱中し、四年の三月早稲田の仏文科を受験して失敗する。五年生になると親友の天野は北大に行き、西村は一高に行ってしまってまた孤独になり、一層詩作に熱中する。長兄の芳郎は、戦後前橋で隆盛になった赤城自由大学運動から共産党に入党し、したがって芳郎の周辺には左翼的文化人が多くなった。だが利夫は共産党とは距離をおき、詩はシュルレリズムから硬質な叙情詩に移りつつあったが、心情的には無頼的な反逆者ランボウを夢見ていたようである。笹沢さんのところに出入りし始めたのもこの頃からだった。
 笹沢さん岡崎さんには厚遇され、YPCの女流詩人には大事にされ、中学校では生徒会長で生徒たちからは特別な目で見られ、教師たちにも一目置かれ、長兄が参加している赤城自由大学の関係者などや文化人の間でも評判になり一部の人たちからは「天使少年」扱いもされたが、親友の天野、西村が一高、北大に行ってしまい利夫は孤独で、文芸部も解散し、堅苦しい中学生活がつくづく嫌になっていて、受験勉強には身が入らず、詩作に没頭していた。そうして受験はその頃左翼系の教授の多かった法政大学を受験することにする。

  一九四八年四月(一八歳)
 前橋中学を卒業し、法政大学予科仏文科に入学上京したが、二か月で学校をやめ帰郷した。家の財産を投資した長兄が関係する事業が倒産して、経済的な困難が増したこともあるが、ランボウに傾倒していた利夫は、予科一年から学部三年までの六年間を大学で過ごすのは無駄だと思ったようでる。そして三年間は家で詩の勉強をすると宣言した。八ヶ岳登山の費用を稼ぐため、ニケ月間旧中島飛行機米軍キャンプ臨時雑役婦として働いた。そのころより、長兄芳郎とその周辺の影響、北大に行った天野が左傾し、早稲田露文科に転校した影響などから、革命的文学ゴーリキイ、ショーロフ、オストロフスキー、マヤコフスキー、ネクラーソフ。理論面では、チェルニイシェフスキー、ププレフーノフ、マルクス、エンゲルス等の芸術論の研究を深め、思想的立場を明らかにしはじめ、マルクス・レーニンの革命論の学習も始める。詩作に没頭、谷川岳をはじめしきりに山に登った。
 この頃の利夫は、ランボウに自分をなぞらえているところがあって、派手なジャンパーを来て無頼的な格好をしていた。美校を出た画家にフランス語を習いに行ったり、YPCの女流詩人たちと喫茶店に行ったり、山に登ったり、自由を味わっていたが、詩の同人雑誌の発行を決意し、YPCの若い仲間誠三、島田千鶴子、福田ヒサと詩雑誌「ラッパ」を発行し、「埃の中のメルヘンだ」と「そこの露地にかくれたのは」を発表する。この利夫の作品に対しての反響は大きく、知己の岡崎、笹沢両氏の激賞はもとより、中央詩壇の北川冬彦、草野心平、大島博光、鮎川信夫、三好豊一郎氏などからはすぐ激励のはがきが来た。とくに大島博光氏は「あなたの『ラッパ』を人民革命の進軍ラッパに」と書加えられていた。これが島田利夫と大島博光との初めての文通だった。笹沢さんは 「このようなことは大変異例なことで、詩壇から認められたことになった」と言った。このことで利夫は自信を持ったようだが、大島さん以外の高名な詩人には連絡を取ることはなく、またプロレタリア詩人中野重治、壷井繁治らには「ラッパ」も送らなかったようである。

  一九四八年一一月(一八歳)
 日本共産党に入党、桂萱村細胞に所属し、供出補正闘争に参加する。その闘争は、五〇人の警官の出動による隠匿米の押収で終わるが、利夫はなおも農民たちを引き連れ、米軍の軍司令部に交渉するなど、注目をあびる。利夫は、引きつづき赤城山の南麓、大胡町、富士見村の貧農の闘いに日夜奔走。農民運動の若いリーダーとして注目され、大胡細胞群の責任者に要請される。その間「ラッパ」は廃刊し、民主主義科学者協会前橋支部の仕事にたずさわり、芸術部会を組織した。

  一九四九年三月(一九歳)
 肺浸潤発病九か月間休養した。

 一九五〇年一月(二〇歳)
 桂萱村細胞責任者になった。

 一九五〇年四月(二〇歳)
 病気回復と共に高橋譲氏を中心とした共産党員共同経営の北斗社に入り、ここを基礎に文化運動に従事、前橋歌う会、文学サークル、各種研究会を組織し、前橋文化団体協議会の中心的活動家の一人として活動し、文学サークル誌「花」を発行、ここに載せた「ふるさとの川の岸べに」が大島博光氏の推薦で一九五二年度「日本ヒューマニズム詩集」に選ばれた。
 このような文化活動の中で、「反戦平和」の広範な学生・青年の運動を組織し、その面での力量を評価される。
 この頃から戦後かちとった民主主義の権利は次第に奪われ、単独講和を前にしてアメリカの支配の下、ふたたびファシズムの嵐は荒れ狂った。共産党の中央委員は追放され、機関紙アカハタは発禁され、党は分裂し、主流派は少数派を排除して、攻撃から守るため非合法活動に入り、四全協、五全協で左翼冒険主義路線を目指した。戦争への危機、等の危機が迫っていた。この情勢の中で利夫はあえて要請に応えて、文学を放棄し政治活動に専念することを決意した。これより、過労と栄養不足、コッペパンと水の生活がはじまった。

  一九五一年一○月(ニー歳)
 非合法機関紙「平和と独立」の弾圧で逮捕。早朝五〇人の警官が家を取りまく。

  一九五二年一月(二二歳)
 共産党中毛地区青年、学生、文化対策責任者、そして労働対策責任者になる。伊勢崎市に居住し、金属工場労組の工作に専念し、放置された経営組織を掘り起こした。

  一九五四年五月(二四歳)
 中毛地区ビューロー員になり前橋に帰る。

  一九五四年一〇月(二四歳)
 中毛地区ビューローキャップになり平和運動、労働運動で成果をあげた。平和問題の理論で中央の評価を受けた。

  一九五四年一〇月(二四歳)
 群馬県ビューローに抜擢。農民対策を担当、妙義基地闘争の指導にあった。

  一九五六年一月 (二六歳)
 日本共産党は五五年七月、党大会に準ずる第六回全国協議会を開き、党の統一の基本方向と今までの極左冒険主義戦術の誤りが正された。この頃より利夫には、ふたたび詩作と山に対する情熱がよみがえった。六全協後開かれた県党会議で県常任委員を辞退し、詩作に没頭することを考えたが、党務の責任を考えて断念し、県委員・常任委員に選ばれた。
 その後利夫は多忙な党務の中でも、詩作のノートを手放さず詩作を試みた。「夜空は瀝青」以後の詩は、その間に書かれた詩である。
 利夫の活動は注目され、県内だけでなく中央からも期待されるようになる。

  一九五七年 (二七歳)
 第一三回群馬県党会議で県委員・常任委員に選ばれる。

  一九五七年八月一九日 (二七歳)
 谷川岳一ノ倉沢第四ルンゼに単独登攀中天侯悪化し頂上へ約二百メートルの地点より墜落死亡した。

二、島田利夫と大島博光の交流

1、利夫は四男だが、兄三人は詩が好きで、ときには、西條八十の詩誌「蝋人形」を買うことがあった。だから利夫も小学校五,六年生の頃からヴェルレーヌ、ランボー、マラルメなどの名や、それらの詩人のいくつかの詩は知っていて、フランス象徴派詩人の詩に惹かれ、フランス象徴派の詩を誌面で紹介していた大島博光には憧れを抱いていた。利夫が大学受験の時仏文科を選んだのもそれが原因。とくに利夫は象徴は詩人の中でも、ランボーに心酔していた。
2、詩の同人雑誌「ラッパ」を発行。この時大島さんから「あなたの『ラッパ』を人民革命の進軍ラッパに」と激励された。それが利夫と大島さんとの交流の出発点だった。「ラッパ」は北川冬彦、草野心平氏など幾人もの中央詩壇の詩人から激励を受けたが、その中でその後利夫が関係を持とうと思ったのは、大島さんだけだった。利夫は大島さんを三鷹の家に訪ね初対面をしたがその後の二人の交流の状況どうだったのかはよく分からない。
3、大島さん訳のアラゴン「フランスの起床ラッパ」の出版は、利夫に大きな衝撃を与えた。その時期の利夫の代表作とも言われる「われらの街はささやきに充ち」「ふるさとの川の岸べに」は、アラゴンの影響を強く感じる。大島さんの推薦で「ふるさとの川の岸べに」は「日本ヒューマニズム詩集」に選ばれた。その後利夫は、詩作を断念し、戦争の危機、等の危機に立向かうため、共産党の常任になる。
4、六全協で、党の統一の基本方向と今までの極左冒険戦術の誤りが正された。利夫に詩作と山に対する情熱がよみがえり、県常任委員を辞退し、詩作に没頭することを考える。上京し、友人天野氏などと相談、大島さんを訪ねるが、結局党務の責任を考えて断念する。
5、利夫はすでに共産党県委員会の若いリーダーとして活動していた。大島氏が詩作から離れていた利夫に会いに前橋の県委員会を訪れた。ちょうどその日利夫は谷川岳に登っていて遭難死したのだ。
6、死後遺稿詩集「夜どおしいっぱい」が発行され、その出版記念会で大島博光の「島田利夫の詩について」という講演があった大島氏の講演は、彼の死について党活動の犠牲などと言わずに堂々としていて、皆に深い感銘をあたえた。

三、大島博光が島田利夫に期待したもの
   島田利夫が大島博光から受け継ごうとしたもの


 大島さんの「教えるとは希望を語ること」年譜によると、大島さんは早稲田の第二高等学院生の時、落合のゴム工場にビラ配りに行き帰路に捕まり高田馬場警察に二九日拘留された。また早稲田大学の卒業論文に「アルチュウル・ランボウ論」を書いたとある。
 利夫は中学三年の時学校から「海軍兵学校を受験しろ」と言われ、「僕は戦争には反対だから受験しない」」と言って、問題になった。また中学二年生の頃からランボウに心酔する。すでに太平洋戦争下、利夫は誠三の持っていた四、五冊の詩誌「蝋人形」からフランスの象徴派詩人集などからランボウを知ったのだろう。その頃兄弟の知り得たランボウの詩はせいぜい一四、五へんと言うところだったろう。それでも利夫のランボウヘの熱中ぶりはすごく、ランボウのように生きようと思っていたようだった。
 天皇制的絶対主義の時代、共に戦争に反対し、ランボウを愛していた点、二人は共通していた。
 利夫は日本の歌人・俳人・詩人が戦時中戦争に同調、無批判だったのは、日本的な情緒的な叙情にあると、その克服にシュルレリズムに傾倒、そしてその影響が脱却できない詩、「埃の中の童話だ」「そこの露地にかくれたのは」を同人詩誌「ラッパ」に発表。北川冬彦・草野心平など「詩と詩論」などシュルレアリズムの影響を受けた詩壇の詩人たちから激賞される。その中でひとり大島博光は、利夫の詩に変革詩人の可能性を見いだし激励する。利夫もその大島さんの言葉に自分の詩の方向を自覚され、詩壇への道は進まず労働運動・農民運動に接近し、労働者・農民そして民衆の立場に立った詩作と行動に入る。その間大島さんとの関係はたもち、いろいろと示唆を受ける。
 大島博光がアラゴン「フランスの起床ラッパ」を発行。大島さん訳のこの詩集に利夫は衝撃を受ける。そうして「『フランスの起床ラッパへの序曲』の調べが響いている詩『歌いだせ一番鶏よ』」(松本悦治「島田利夫試論」より)を発表。その後利夫のその時期の代表作と言われる「われらの街はささやきに充ち」「ふるさとの川の岸べに」を発表した。
 利夫には「詩人とは時代の先駆者でなければならない。理論の力、政治の力がまだ大衆を捉えられないとき、大衆を覚醒させ起ちあがらせるのが詩人の任務だ」というところがあった。そうして自分の詩は叙情に流れている、自分は詩ではやれないと、朝鮮戦争が拡大し、党が弾圧され、日本が再び戦争に巻き込まれるのを阻止しようと、マヤコフスキー、アラゴンのような革命的なリズムを持った詩リズムを掴むために、党の最前線の任務に飛び込む。その時の党は、火炎ビンなどを投げている徳田・野坂一派が組織の大部分を抑えている不正常な状態。その中で利夫は頭角を現し党の統一と職冒険主義克服党の正常化のために努力する。やがて六全協で党は統一され、正常に戻る。利夫は党務を辞退し、詩作に専念したいと思うが、皆の期待と、党への責任から党務を持続し、それ以後党務の傍ら詩作に努力し、迫力あるリズムの変革詩を目指していたが、その途上谷川岳と登攀中遭難死した。
 大島さんは、早くから利夫に変革詩の方向を指し示した。日本は島国で単一民族で形成されて、一時鎖国していたこともあり、閉鎖的で内面的な文学、とくに定型詩和歌、俳句は独自な発展をしてきた。明治維新後、日本の近代国家的発展の中で、欧米文学の影響もあって新体詩運動が起こり発展してきた。大島さんの詩、翻訳詩、詩論などの業績は、日本の進歩的な詩の伝統、プロレタリア詩の流れ、近代的フランスの詩をはじめとする世界の革命的な流れに終始立っていた詩人だった。正統な立場でともに変革の詩を目指した、そのことが利夫と大島さんを結びつけた最大の理由ではないか。

 変革の詩の内容の現在的理解

 「変革の詩」ということで想像されるのは、マヤコフスキーの詩、日本ではプロレタリア詩の印象が強いと思う。だが私達が大島さんから伝えられた外国のアラゴン・エリュアール・ネルーダなどの詩は、そして大島博光の詩・島田利夫の詩は、それらの詩とは大分印象が違う。「変革の詩」の内容が変化発展してきているのではないか。
 また政治反動の暴力が、立憲政治の危機、民主政治の危機、戦争の危機、生活全般に及ぶ危機として多くの国民が起ちあがる市民革命の状況さえ呈しているとき、多くの市民の声が変革の言葉になりつつあるのではないか。逆に言えば、日常的なテーマを歌うときにも、変革の立場に立たざるをえないようになっているのではないか。それを意識し、あらためて、大島さんの詩のスタイル、利夫の詩のスタイルから学べるのではないか。
 未来社会は人間が全面的に解放される社会であり、個性的に充実される社会でもあり、それを目指すわれわれは連帯しながらたえず新しいものを吸収し、輪を広げて行くのだ。

 あの困難な時代を変革の光を掲げて生き抜いた島田利夫・大島博光に栄光あれ!


  (2015年11月15日 大島博光記念館での講演の資料)

赤城山
赤城山

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