ペール・ラシェーズの墓地

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 ペール・ラシェーズの墓地

 墓地の高い塀(へい)はツタにおおわれ、鉄の門も高くりっぱなものであった。一八七一年五月二十八日、パリ・コミューヌの「血の週間」の最後の日、この鉄の門も砲撃されたのだ。コミューヌ戦士たち──連盟兵(フェデレ)たちは、墓のあいだで、ヴェルサイユ軍と白兵戦を演じながら、東南のすみの壁ぎわに追いつめられ、そこで全員、銃殺されたのだった……正門からはいってゆくわたしも、ちょうど連盟兵たちのように、墓石のあいだを縫って、最後の壁までのぼってゆくことになる。そこには詩人ミュッセが墓碑銘どおり柳の木の下で眠っていたり、皮肉なことに、コミューヌの残虐な圧殺者ティエールも豪奢(ごうしゃ)な墓におさまっているのだ。
 壁の近くにくると、右手に、ひときわ高く、ブロンズのやせさらばえた群像のモニュマンが、異様な迫力でせまってくる。その下の墓石には「ナチの収容所で倒れた十万の死者たちに」と刻まれている。
 そのとなりの「若者たちに」ささげられたモニュマンには、つぎのような墓碑銘がきざまれていた。「人間はどのように倒れるべきか、そして人間は、勇気と献身によって、どのように人間の名をまもりつづけたか──ねがわくば永遠にこの墓がそれを告げ知らせてくれるように。アラゴン」
 それから、あのシャトーブリアンとモン・バレリアンの殉難者にささげられた墓碑があり、アウシュビッツの死者たちをとむらう記念碑があった……
 ここには、あのレジスタンスの殉難者たちがとむらわれ、レジスタンスの歴史が眠っているのである。
 これらの墓碑につづいて、偉大な名前が並んでいた。「ジャン・リシャール・ブロック──小説家にして詩人」という墓石には、つぎのようなブロック自身のことばが刻まれていた。
 「ああ、作家のインキは、それが血と涙にまみれ、まじりあってこそ、不滅の価値をもつ。一九四三年のラジオ放送より」
 そしてポール・バイヤン・クーチュリエ(ユマニテ編集長、作家)の墓があり、そのとなりに「自由」の詩人エリュアールが眠っており、そのまたとなりに、フランス共産党書記長モーリス・トレーズの黒大理石の墓があった……。
 エリュアールの墓には、バラの枝が、墓石を抱くかのように伸びていて、その前に造花のスミレが供えられていた。わたしはたずさえてきた花束を、エリュアールとトレーズの墓にささげた。さーっとしぐれのような通り雨がさわやかに降って過ぎた。そこへ、老母と中年の労働者夫婦らしい一家がやってきてキクのはちをトレーズの墓にささげた。わたしたちは「カマラード」というあいさつをかわしてきわめて自然に握手した。

「連盟兵の壁」と「さくらんぼの頃」

 「連盟兵(フェデレ)の壁」はこれらの墓の列に向かいあうようにして、道をへだてて、ややそのななめ前にあった。壁の下の芝生のなかに、デージーの花が小さな星のように咲いているのが印象的だった。日本に咲くデージーよりはずっと小さい、かわいい花だった。この一郭の壁だけは、あたりの新しく作り直された、りっぱな壁とはちがって、むかしのままの壁らしく、いかにも古めかしく積みあげた煉瓦がむきだしに見えたり、ところどころ、銃弾のあとらしい不気味な穴も見えるのであった。その壁に「一八七一年五月二十一日~二十八日のコミューンの死者たちにささげる」と刻まれた、蒼然とした銅版がかかっていた。年々、コミューヌの戦士たちを偲ぶ記念祭が、この壁の前でとり行われるのである。一八八七年、ジュール・ジゥイはつぎの詩をささげている。

  茫々としてひろい墓地の奥
  みどりの草の 寝藁の下に
  蛆虫どもに 喰いちらされて
  銃殺された人たちは眠る
  並んだ旗と 花輪が
  壁に残った弾丸痕(たまあと)をかくし
  連盟兵たちが最後に隠れた
  この不吉な壁を 飾る

  祭壇も 蒼いステンドグラスもなく
  十字架も黄金の百合もない墓
  人民は 語り草にするとき
   ここを壁と呼ぶ

  歩兵 騎兵 砲兵どもが
  あの気高い戦士たちを追いつめ
  銃殺者どもの 巣穴のなかに
  追い込んだのが ここだ
  鹿を追いつめた合図のラッパが
  森じゅうに ひびきわたり
  英雄的な抵抗もむなしく 鹿が
  犬どもの前に仆れたのが ここだ

  ……
  殺し屋よ 未来がお前らを苛(さいな)む
  反抗者たちは 地上に戻ってくる
  屍の ひとつひとつから
  思い出の 青草が 伸びる
  ……
  (新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』一九二ページ)

 この壁のすぐ前、スズカケの大樹の下には、なんと雨風にうたれて墓石の文字もうすれ、やっとそれと読める、詩人ジャン・バティスト・クレマンの墓があるではないか。そのとなりには、やはりコミューヌのために英雄的にたたかって仆れた、ロシヤ出身の将軍ドンブラフスキイの墓もある。「思い出の青草が伸びる……」そうだ、このコミューヌ戦士たちの墓の前に、あのレジスタンスの英雄たちのモニュマンや墓が立っているとは、なんと象徴的なことだろう……
 さて、クレマンこそは、コミューヌの頃、パリじゅうで歌われた「さくらんぼの頃」の作者であって、このシャンソンはいまもよく歌われている。

  さくらんぼの 熟れる頃は
  陽気な鶯や 口の悪い鶫(つぐみ)が
   うきうき浮かれて歌い出す
  娘たちも ぽっと のぼせて
  恋する男の胸も ぱっと明るい
  さくらんぼの 熟れる頃は
  口の悪い鶫が よく歌う

  だが さくらんぼの頃は 短いよ
  二人で夢みながら 摘みにゆく
   滴(したたる)る血のように 木の下に
  おんなじ色して 落ちてくる
  耳環のような 恋のさくらんぼ
  だが さくらんぼの頃は 短いよ
  夢みごこちで 珊瑚の耳環を摘むよ

  ……
  さくらんぼの頃が 忘られぬ
  おれのこころにゃ あの頃の
   深い傷手(いたで)が なおうずく
  「幸運」の女神に 出会おうと
  わが苦しみは いやされぬ
  さくらんぼの頃が 忘られぬ
  あの思い出は 消えやらぬ
    (新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』一九二ページ)
 まことにパリ・コミューンは、短くてむごい春であり、さくらんぼの熟れるころだった。
 いつかもう夕ぐれていた。フランス人民のずっしりと重いたたかいの歴史に心ゆすぶられながら、わたしは帰路についた。裏門のあたりで、門衛が、ピピー、ピピーと笛を吹き鳴らしていた。門限の時刻がきていたのである。


(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

ナチ殉難者
ナチ殉難者の像

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