コロネル・ファビアン広場

ここでは、「コロネル・ファビアン広場」 に関する記事を紹介しています。
コロネル・ファビアン広場

 一九七四年八月十三日
 パリの東北部、ビュット・ショーモンの丘に通ずるだらだら坂を、コロネル・ファビアン広場をめざしてのぼって行った。──広場の一角にあるフランス共産党本部をおとずれ、それからペール・ラシェーズの墓地へまわるためである。
 ところで、パリほど歴史のモニュマン(記念物)や思い出にみちている都市(まち)はない。大革命やパリ・コミューヌ、それに新たに第二次大戦中の対独レジスタンスのモニュマンや思い出が加えられることになった。なんといっても石の町なので、モニュマンが残りやすい、という点もあろうが、市民が積極的にモニュマンや思い出を大事にすると同時に、「天をも衝くパリ労働者」(マルクス)の革命的伝統がものをいってるのにちがいない。その革命的市民にぞくする英雄たちの名前が、町通りや広場に与えられているのには、驚くばかりだ。『責め苦のなかで歌ったもののバラード』(アラゴン)によってひろく知られるようになった、あのガブリエル・ペリは、パリ北部サン・ドニの町通りにその名をとどめている。コロネル・ファビアン広場もそのひとつなのだ。
 レジスタンスの英雄ファビアン大佐ことピエール・ジョルジュは、この広場から始まるヴィレット大通り一〇九番地に生まれた。若くしてフランス共産党員となり、スペイン戦争の折には、十七歳で、有名な国際義勇旅団に参加して戦った。
 対独レジスタンスが始まると、かれは武装した青年学生グループを組織し、指導する。一九四二年八月二十一日の白昼、地下鉄バルベ駅で、かれはドイツ軍将校をピストルで射殺した。この銃声こそ、レジスタンスにおいて銃撃戦が開始される最初の合図となった。のちにロレーヌ戦線で戦死したとき、かれはまだ二十六歳だった。エリュアールはかれの思い出に『人間の尺度で』という詩を書いた。

  ・・・
  かれの愛は
  太陽のために戦ったスペインに
  ささげられた
  かれの愛は
  危険な道にみち
  かわいい子供たちにみちた
  パリ地区にささげられた
  そうして極悪の兵隊どもにたいして
  ぞっとするような死にたいして
  かれが加えた最初の襲撃は
  不幸なひとたちのくらやみを照らす
  最初のひかりとなった
  ・・・

 こうしてコロネル・ファビアンは、パリの広場のひとつに、そしてエリュアールの詩のなかに、その名と思い出を残すことになった・・・
 やはりゆるい斜面の小さな広場のまんなかには、マロニエか何かの大樹が一本立っていて、ゆたかな蔭を落していた。広場のとっつきのところのカフェに、日本の若者が三人坐っていた。ひとりは文学を、ひとりは陶芸を、ひとりは絵画を勉強していると言い、この近くにペンキ塗りのアルバイトに来ているところだ、と言っていた。
 共産党本部は、広場に面して、まだ工事中の高い板べいの向こうに建っていた。
灰色のガラス張りで、弓型の湾曲線を強調した、流線型のモダンな、七階建てのビルディングであった。受付は飾りのない、むきだしのコンクリートのだだっ広い地下の廊下にあって、夏休みのせいか、出入りする人の影もなかった。かたわらのガラスのケースのなかには、新刊の党関係の出版物が並べられており、そのなかにアラゴンの『レ・コミュニスト』も見えた。そのアラゴンもバカンスで、アヴィニョンの方に行っているということであった。
 それから、ヴィレット通りをくだって、わたしたちはペール・ラシェーズへと歩いて行った。
 大通りの中央には亭々とそびえた三列もの街路樹が並んでいて、その木かげに市がひらかれていた。ちょうど花屋もあったので、花束を三つ買った。

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

共産党本部
フランス共産党本部


関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/2810-c8068416
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック