アヴィニヨン ─ エルザの町
城壁のなかの アヴィニヨンのように
きみを腕のなかに抱いて 十八年
香ぐわしい たった一日のような十八年
わたしの愛は しっかりときみを守ってきた
秋はもう あたりの茂みを紅葉に飾り
こがねの枝の下に 冬は早くも しのびよる
だが冬も わが愛するひとに 何ができよう
われらのなかに すばらしいささやきの残るかぎり
火が消えたときにも 煙りが立ちのぼり
夜のなかにも 桑の実のほろ苦い味の残るかぎり
アラゴン
一九七八年十一月二十三日
コリウールを発って、地中海沿いに、美しい南仏のラングドック地方の、海と沼のあいだを走って、アヴィニヨンに向う。小春日和のやわらかい陽ざしが明るい。スペインのカスチリヤの砂漠や荒野にくらべると、このあたりは、はてしない海べの庭園のように美しい。
アヴィニヨンの駅に降り立つと、眼の前に城門がそびえ、古い高い城壁が左右につづいている。プラタナスの街路樹が黄色い葉むれを晩秋の陽にかがやかせている。──さながら、中世騎士道物語の映画の舞台を連想させるような風景だが、城壁の下をゆくのは馬に乗った騎士たちではなく、やはり自動車(くるま)の流れである。
わたしたちは法王宮殿の近くのホテルに宿をとった。やはり鈴懸けの大樹をめぐらした、四角い広場があって、広場に面して市役所や小さな公会堂や、またレストランやホテルがならんでいる。ふと市役所をのぞくと、入口の広間の正面に「一九四〇年~一九五五年の殉難者たちと国外に連れ去られた人たちの記念に」というレジスタンスの銅版が、小さな三色旗に飾られて、かかっていた。公会堂ではちょうどべ-トーベンの第九交響曲の演奏会がひらかれていた。
夕ぐれになると、盛装した家族連れや老夫婦などが、腕を組んで散歩をたのしんでいる……そういえば、エルザ・トリオレの『アヴィニヨンの恋人たち』を思い出さないわけにはいかなかった。この町のどこかの壁には、「ここでペトラルカはローラのためにこよなき愛をはぐくみ歌い、その歌ゆえに彼らは不滅となった」と刻んであるという。そしてエルザはつづけて書いている。「この町は、かずかずの伝説で織りなされている。毎日、ここでは伝説の糸が一本そこに織り込まれる。ここではめいめいがペトラルカであり、ひとりひとりの女がローラなのだ……この恋の町、この神秘で粋(いき)な町の通りには、なんと多くの不滅の夫婦たちがいることか……」
十四世紀に建てられたという法王宮殿は、ちよっと小高いところに、石だたみを敷きつめた広場を前にして、ひとを威圧せずにはおかぬといった風に、灰色に、厳(いか)めしく聳え立っていた。中に入ってみると、もう調度品もない裸かの大きな部屋がいくつかあり、法王のいろいろの儀式が行われたという大広間は、右手の棟の二階にあった。ここに法王廳が置かれた十四世紀の威容はもう想像するほかはない。
宮殿の横手はさらに小高い岩山の公園になっていて、すぐ下に「アヴィニヨンの橋で輪になって踊る」という歌で有名な聖ベネゼの橋が、ひろいローヌ河のまんなかで、ぽつんと折れたままに横たわっているのが見える。まるで腕を半分切り落とされたまま、その腕を伸ばしているひとのようだ。この橋は十三世紀に造られたが、十七世紀に洪水で流されて、半分だけが残ったのだという。その向うの川の中に大きな島があって、島に生い茂ったポプラか何かの林が、いちめん明るい茶色に紅葉して輝やいていた。そのまた向こうの高みにヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニヨンの村が見え、聖アンドレ要塞が秋の陽のなかに煙っていた……その村に、一九四〇年、アラゴンとエルザは隠れ住んで、レジスタンスをたたかったのだった。のちにアラゴンは『アヴィニヨン』を歌い、『溺死者たち』を書く。
溺死者たち
わたしのこころの中は この町の風情にそっくりだ
どこからともない すさまじい風が吹き荒れている
おお 流れに浮かぶ溺死者たち きみらを島々が愛撫する
きみらは 見知らぬ 長い夢に沿って くだってゆく
土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれて きみらは急ぐ
はるか遠いアリスカンの 約束の憩いの場所へ
英雄たちが眠り 死者たちも宿をとる ところ
とある夕べ ひとはみんな そこにたどり着く
だが 星ちりばめた空に 何も見えぬ眼を向け
さまざまな身の上話を抱いて 岸べを離れると
きみらは 仰向けに 橋のしたを流れてゆく
流れが掠(かす)める 白い宮殿も きみらには見えない
さあ アルルが待っているから 急ぎたまえ もう遅いのだ
きみらは向うの 名もない墓石の下で泣くだろう
ここでは 夜どおし ギターがかなで
わたしの愛は アヴィニヨンに似て はてしない
(飯塚書店『アラゴン選集』第二巻二一三ページ)
これは、第二次大戦下にくりひろげられた、壮烈な光景のひとつをうたったものである、この溺死者たちとは、むろん、ナチス・ドイツ軍とたたかって虐殺され、ローヌ川に投げこまれた人たちでなければならない。だからこそ、「島々が愛撫」し、「土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれ」るのである。アヴィニヨンのあたり、ローヌ川はひろい大河であって、前にも書いたように、川の中には大きな島々がある。「流れが掠める 白い宮殿」も、むろん法王宮殿を指している。そうしてそれらの溺死者たちは、やがて下流のアルル郊外のアリスカン墓地の「名もない墓石の下」に葬られることになる……
(完成原稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)
城壁のなかの アヴィニヨンのように
きみを腕のなかに抱いて 十八年
香ぐわしい たった一日のような十八年
わたしの愛は しっかりときみを守ってきた
秋はもう あたりの茂みを紅葉に飾り
こがねの枝の下に 冬は早くも しのびよる
だが冬も わが愛するひとに 何ができよう
われらのなかに すばらしいささやきの残るかぎり
火が消えたときにも 煙りが立ちのぼり
夜のなかにも 桑の実のほろ苦い味の残るかぎり
アラゴン
一九七八年十一月二十三日
コリウールを発って、地中海沿いに、美しい南仏のラングドック地方の、海と沼のあいだを走って、アヴィニヨンに向う。小春日和のやわらかい陽ざしが明るい。スペインのカスチリヤの砂漠や荒野にくらべると、このあたりは、はてしない海べの庭園のように美しい。
アヴィニヨンの駅に降り立つと、眼の前に城門がそびえ、古い高い城壁が左右につづいている。プラタナスの街路樹が黄色い葉むれを晩秋の陽にかがやかせている。──さながら、中世騎士道物語の映画の舞台を連想させるような風景だが、城壁の下をゆくのは馬に乗った騎士たちではなく、やはり自動車(くるま)の流れである。
わたしたちは法王宮殿の近くのホテルに宿をとった。やはり鈴懸けの大樹をめぐらした、四角い広場があって、広場に面して市役所や小さな公会堂や、またレストランやホテルがならんでいる。ふと市役所をのぞくと、入口の広間の正面に「一九四〇年~一九五五年の殉難者たちと国外に連れ去られた人たちの記念に」というレジスタンスの銅版が、小さな三色旗に飾られて、かかっていた。公会堂ではちょうどべ-トーベンの第九交響曲の演奏会がひらかれていた。
夕ぐれになると、盛装した家族連れや老夫婦などが、腕を組んで散歩をたのしんでいる……そういえば、エルザ・トリオレの『アヴィニヨンの恋人たち』を思い出さないわけにはいかなかった。この町のどこかの壁には、「ここでペトラルカはローラのためにこよなき愛をはぐくみ歌い、その歌ゆえに彼らは不滅となった」と刻んであるという。そしてエルザはつづけて書いている。「この町は、かずかずの伝説で織りなされている。毎日、ここでは伝説の糸が一本そこに織り込まれる。ここではめいめいがペトラルカであり、ひとりひとりの女がローラなのだ……この恋の町、この神秘で粋(いき)な町の通りには、なんと多くの不滅の夫婦たちがいることか……」
十四世紀に建てられたという法王宮殿は、ちよっと小高いところに、石だたみを敷きつめた広場を前にして、ひとを威圧せずにはおかぬといった風に、灰色に、厳(いか)めしく聳え立っていた。中に入ってみると、もう調度品もない裸かの大きな部屋がいくつかあり、法王のいろいろの儀式が行われたという大広間は、右手の棟の二階にあった。ここに法王廳が置かれた十四世紀の威容はもう想像するほかはない。
宮殿の横手はさらに小高い岩山の公園になっていて、すぐ下に「アヴィニヨンの橋で輪になって踊る」という歌で有名な聖ベネゼの橋が、ひろいローヌ河のまんなかで、ぽつんと折れたままに横たわっているのが見える。まるで腕を半分切り落とされたまま、その腕を伸ばしているひとのようだ。この橋は十三世紀に造られたが、十七世紀に洪水で流されて、半分だけが残ったのだという。その向うの川の中に大きな島があって、島に生い茂ったポプラか何かの林が、いちめん明るい茶色に紅葉して輝やいていた。そのまた向こうの高みにヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニヨンの村が見え、聖アンドレ要塞が秋の陽のなかに煙っていた……その村に、一九四〇年、アラゴンとエルザは隠れ住んで、レジスタンスをたたかったのだった。のちにアラゴンは『アヴィニヨン』を歌い、『溺死者たち』を書く。
溺死者たち
わたしのこころの中は この町の風情にそっくりだ
どこからともない すさまじい風が吹き荒れている
おお 流れに浮かぶ溺死者たち きみらを島々が愛撫する
きみらは 見知らぬ 長い夢に沿って くだってゆく
土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれて きみらは急ぐ
はるか遠いアリスカンの 約束の憩いの場所へ
英雄たちが眠り 死者たちも宿をとる ところ
とある夕べ ひとはみんな そこにたどり着く
だが 星ちりばめた空に 何も見えぬ眼を向け
さまざまな身の上話を抱いて 岸べを離れると
きみらは 仰向けに 橋のしたを流れてゆく
流れが掠(かす)める 白い宮殿も きみらには見えない
さあ アルルが待っているから 急ぎたまえ もう遅いのだ
きみらは向うの 名もない墓石の下で泣くだろう
ここでは 夜どおし ギターがかなで
わたしの愛は アヴィニヨンに似て はてしない
(飯塚書店『アラゴン選集』第二巻二一三ページ)
これは、第二次大戦下にくりひろげられた、壮烈な光景のひとつをうたったものである、この溺死者たちとは、むろん、ナチス・ドイツ軍とたたかって虐殺され、ローヌ川に投げこまれた人たちでなければならない。だからこそ、「島々が愛撫」し、「土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれ」るのである。アヴィニヨンのあたり、ローヌ川はひろい大河であって、前にも書いたように、川の中には大きな島々がある。「流れが掠める 白い宮殿」も、むろん法王宮殿を指している。そうしてそれらの溺死者たちは、やがて下流のアルル郊外のアリスカン墓地の「名もない墓石の下」に葬られることになる……
(完成原稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)
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