大島博光の反核の詩(2)国際的な反核運動の高まりと「鳩の歌」 /大島朋光
ベトナムの民族解放闘争と「ベトナム詩集」
一九六〇年代、ベトナムでは民族の独立と統一をめざして解放闘争がすすめられていた。アメリカは一九六四年八月、トンキン湾事件をでっちあげて、北ベトナム本土に対する北爆を行った。翌六五年には北爆を恒常化させ、本格的なベトナム戦争に突入する。核兵器が使われる危険が高まる中で、「ベトナムを第二の広島、長崎にするな」をスローガンに日本でも広範なベトナム反戦の大衆運動がすすめられた。博光はベトナムの詩人たちが闘いの中で書いた詩を翻訳して紹介、『ベトナム詩集』(一九六八年)を刊行してベトナム戦争反対・ベトナム人民支援の運動に呼応した。
一九七四年四月、多くの年月と犠牲を払いながらも、粘り強い英雄的な闘いにより、ベトナム人民はアメリカ帝国主義を打ち破り、祖国の解放と統一を勝ち取った。
国際的な反核運動の高まりと「鳩の歌」
一九八〇年代初頭、NATOがソ連に対抗してヨーロッパに中距離ミサイル・戦域核配備をすすめると、核兵器による戦争、ヨーロッパ全土壊滅への危機感がヨーロッパ諸国民の間に急速に高まり、反核運動が燃え上がった。八三年十月二十二日、国際反戦デーにあわせて国際反核統一行動が行なわれ、ドイツの首都ボンの中央集会に五十万人が結集、オランダ、イギリス、イタリアなどで数十万人規模のデモや「人間の鎖」が行われた。こうした国際的な反核運動の高まりのなかで、一九八三年から八四年にかけて「鳩の歌」シリーズの四篇の詩が書かれた。「鳩の哀歌」(一九八三年)、「鳩の歌」(『文化評論』一九八四年一月)、「斧はくるな─鳩の歌」(『赤旗』一九八四年二月十六日)、「火をつけるな─鳩の歌」(『民主文学』一九八四年六月号)。
国際的な反核運動の大きな高まりが生み出したというべき「鳩の歌」は「わたしは人類そのものだから、どんな毒矢も絶望も撃ち落とせない」「わたしは大きな春と未来のためにやって来た」と人類の未来への希望と確信を高らかに歌っている。科学的社会主義の世界観に立ち、「鳩と未来の詩人」を自認していた博光の代表作といっていいと思う。
画期的な「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名運動
一九八五年二月、日本原水協を含む十一カ国の反核団体がよびかけた「核兵器全面禁止・廃絶のために―ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名運動は、核兵器廃絶を目標に世界世論を結集させる画期的な運動となった。署名数は一千万筆を超え、世界の非政府組織が一致して国連に核兵器廃絶を人類生存にかかわる第一義的課題として審議するよう勧告する原動力となった。
博光はこのアピールに応えて「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」を書いた。
きょう ヒロシマ・ナガサキから吹く風は
四十年後のいまも 怒り 呻き おらぶ
ヒロシマ・ナガサキに 涙はかわかない
四十年たったいまも その傷は癒えない
……
一瞬に 過去 現在 未来が吹っ飛んだ
生きながら 焼き焦がされた 子供たち
生きながら 襤褸の身となった 女たち
生きながら 蛆虫に喰われた 男たち
……
きょう ヒロシマ・ナガサキから吹く風は
虫けらのように 焼き殺された人たちの
その 燃えた血と涙のうえを渡ってくる
その 燃えた灰と骨のうえを吹いてくる
……
ヒロシマ・ナガサキの 熱い灰の中から
その名も希望とよぶ 不死鳥が 舞い立つ
大きな死とたたかう 鳩たちが飛び立つ
ヒロシマ・ナガサキから 世界じゅうの空へ
(『赤旗』一九八五年八月)
一九八六年二月に開催された「ヒロシマ・ナガサキからのアピール一周年のつどい」に参加した博光は、詩「鳩のねがい」を発表した。また一連の反核の詩を書いた。「鶴と鳩と」(『民主長野』一九八五年十二月)「鳩のねがい」(『赤旗』一九八六年二月)、「地球をとり巻け 平和の波よ」(『赤旗』一九八七年十月)、「戦争と平和と」(『赤旗』一九八八年一月)、「核戦争と平和と」(一九八八年六月)。
世界で取り組まれた「平和の波」(一九八七年)
一九八七年十月、世界各地で「平和の波」行動が取り組まれた。博光は「地球をとり巻け 平和の波よ」を書いて行動への参加を熱く呼びかけた。
「戦争に反対する詩人の会」と湾岸戦争
「戦争に反対する詩人の会」は「詩人も反戦の声をあげなければならない」という鈴木初枝の音頭で始まった全国組織で、一九八二年に発足し、二〇〇二年に解散した。百人でスタートした会員が二五〇人の規模になっていた。年二回「反戦、市民と詩人の集い」を全国各地で開催し、当該地域の詩人たちの力を集めて成功させた。また、パンフレット詩集『反戦のこえ』を年二回定期刊行した。博光は当初から参加して活動し、上田、松本、前橋など各地で行われた「反戦、市民と詩人の集い」で講演した。十九年間、全国の詩人の力を結集して反戦の声をあげ、国家機密法など軍国主義復活の動きに反対して運動するなど大きな足跡を残した。
一九九〇年に湾岸戦争が起こると、博光はアメリカの報復戦争に反対して、詩「いまは走るときだ」(『赤旗』一九九一年二月)、「恐竜ティラノザウルスが」(『平和新聞』二〇〇二年四月)を書いた。
また、フランスの詩人ゴーシュロンの湾岸戦争を告発した詩「湾岸戦争を見渡す岬」を翻訳し、ゴーシュロン詩集『不寝番』(二〇〇三年)を刊行した。「死を目の前にしてこんな詩集ととり組んでいることを 私じしんがしあわせだと思っています。それはまるで第一線で戦っているようなものですから」と語り、九〇歳をすぎた最晩年まで反核と平和の詩に取り組んだ。 (了)
(『狼煙』79号 2015年12月)
ベトナムの民族解放闘争と「ベトナム詩集」
一九六〇年代、ベトナムでは民族の独立と統一をめざして解放闘争がすすめられていた。アメリカは一九六四年八月、トンキン湾事件をでっちあげて、北ベトナム本土に対する北爆を行った。翌六五年には北爆を恒常化させ、本格的なベトナム戦争に突入する。核兵器が使われる危険が高まる中で、「ベトナムを第二の広島、長崎にするな」をスローガンに日本でも広範なベトナム反戦の大衆運動がすすめられた。博光はベトナムの詩人たちが闘いの中で書いた詩を翻訳して紹介、『ベトナム詩集』(一九六八年)を刊行してベトナム戦争反対・ベトナム人民支援の運動に呼応した。
一九七四年四月、多くの年月と犠牲を払いながらも、粘り強い英雄的な闘いにより、ベトナム人民はアメリカ帝国主義を打ち破り、祖国の解放と統一を勝ち取った。
国際的な反核運動の高まりと「鳩の歌」
一九八〇年代初頭、NATOがソ連に対抗してヨーロッパに中距離ミサイル・戦域核配備をすすめると、核兵器による戦争、ヨーロッパ全土壊滅への危機感がヨーロッパ諸国民の間に急速に高まり、反核運動が燃え上がった。八三年十月二十二日、国際反戦デーにあわせて国際反核統一行動が行なわれ、ドイツの首都ボンの中央集会に五十万人が結集、オランダ、イギリス、イタリアなどで数十万人規模のデモや「人間の鎖」が行われた。こうした国際的な反核運動の高まりのなかで、一九八三年から八四年にかけて「鳩の歌」シリーズの四篇の詩が書かれた。「鳩の哀歌」(一九八三年)、「鳩の歌」(『文化評論』一九八四年一月)、「斧はくるな─鳩の歌」(『赤旗』一九八四年二月十六日)、「火をつけるな─鳩の歌」(『民主文学』一九八四年六月号)。
鳩の歌
わたしは鳩だから どこへでも飛んでゆく
風のように 世界じゅう 飛びまわっている
わたしの巣立った巣は ヒロシマ ナガサキ
ゲルニカ アウシュビッツ オラドゥール
わたしはそこで焼かれて 灰のなかから
不死鳥のように また 生まれてきたのだ
そこで焼かれた人たちが血と涙の中から
仰ぎ見た あの空の虹が わたしなのだ
わたしは大きな不幸の中から生まれてきたから
わたしのほんとうの名は しあわせ幸福というのだ
わたしの名を呼んでいるところ どこへでも
わたしは三つ葉の小枝をくわ咬えて 飛んでゆく
赤ん坊に乳をふくませている母親の胸のなか
新しい朝を迎えた 若い恋人たちのところへ
ごらんなさい ボンで ローマで ロンドンで
うねっているわたしの波を 「人間の鎖」を
地獄の敷居にすっくと立って叫んでる人たちを
白いミサイルも赤いミサイルも まっぴらだ
この地球がまるごと ヒロシマのように
焼かれて 殺されて 瓦礫とならぬように
どんな毒矢も わたしを撃ち落せはしない
わたしは生そのもの 人類そのものだから
どんな絶望もわたしの翼を折ることはできない
わたしは 大きな死と闘うためにやって来た
わたしの またの名を 希望というのだ
わたしは大きな春と未来のためにやって来たのだから
(一九八三年十二月)
わたしは鳩だから どこへでも飛んでゆく
風のように 世界じゅう 飛びまわっている
わたしの巣立った巣は ヒロシマ ナガサキ
ゲルニカ アウシュビッツ オラドゥール
わたしはそこで焼かれて 灰のなかから
不死鳥のように また 生まれてきたのだ
そこで焼かれた人たちが血と涙の中から
仰ぎ見た あの空の虹が わたしなのだ
わたしは大きな不幸の中から生まれてきたから
わたしのほんとうの名は しあわせ幸福というのだ
わたしの名を呼んでいるところ どこへでも
わたしは三つ葉の小枝をくわ咬えて 飛んでゆく
赤ん坊に乳をふくませている母親の胸のなか
新しい朝を迎えた 若い恋人たちのところへ
ごらんなさい ボンで ローマで ロンドンで
うねっているわたしの波を 「人間の鎖」を
地獄の敷居にすっくと立って叫んでる人たちを
白いミサイルも赤いミサイルも まっぴらだ
この地球がまるごと ヒロシマのように
焼かれて 殺されて 瓦礫とならぬように
どんな毒矢も わたしを撃ち落せはしない
わたしは生そのもの 人類そのものだから
どんな絶望もわたしの翼を折ることはできない
わたしは 大きな死と闘うためにやって来た
わたしの またの名を 希望というのだ
わたしは大きな春と未来のためにやって来たのだから
(一九八三年十二月)
国際的な反核運動の大きな高まりが生み出したというべき「鳩の歌」は「わたしは人類そのものだから、どんな毒矢も絶望も撃ち落とせない」「わたしは大きな春と未来のためにやって来た」と人類の未来への希望と確信を高らかに歌っている。科学的社会主義の世界観に立ち、「鳩と未来の詩人」を自認していた博光の代表作といっていいと思う。
画期的な「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名運動
一九八五年二月、日本原水協を含む十一カ国の反核団体がよびかけた「核兵器全面禁止・廃絶のために―ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名運動は、核兵器廃絶を目標に世界世論を結集させる画期的な運動となった。署名数は一千万筆を超え、世界の非政府組織が一致して国連に核兵器廃絶を人類生存にかかわる第一義的課題として審議するよう勧告する原動力となった。
博光はこのアピールに応えて「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」を書いた。
きょう ヒロシマ・ナガサキから吹く風は
四十年後のいまも 怒り 呻き おらぶ
ヒロシマ・ナガサキに 涙はかわかない
四十年たったいまも その傷は癒えない
……
一瞬に 過去 現在 未来が吹っ飛んだ
生きながら 焼き焦がされた 子供たち
生きながら 襤褸の身となった 女たち
生きながら 蛆虫に喰われた 男たち
……
きょう ヒロシマ・ナガサキから吹く風は
虫けらのように 焼き殺された人たちの
その 燃えた血と涙のうえを渡ってくる
その 燃えた灰と骨のうえを吹いてくる
……
ヒロシマ・ナガサキの 熱い灰の中から
その名も希望とよぶ 不死鳥が 舞い立つ
大きな死とたたかう 鳩たちが飛び立つ
ヒロシマ・ナガサキから 世界じゅうの空へ
(『赤旗』一九八五年八月)
一九八六年二月に開催された「ヒロシマ・ナガサキからのアピール一周年のつどい」に参加した博光は、詩「鳩のねがい」を発表した。また一連の反核の詩を書いた。「鶴と鳩と」(『民主長野』一九八五年十二月)「鳩のねがい」(『赤旗』一九八六年二月)、「地球をとり巻け 平和の波よ」(『赤旗』一九八七年十月)、「戦争と平和と」(『赤旗』一九八八年一月)、「核戦争と平和と」(一九八八年六月)。
世界で取り組まれた「平和の波」(一九八七年)
一九八七年十月、世界各地で「平和の波」行動が取り組まれた。博光は「地球をとり巻け 平和の波よ」を書いて行動への参加を熱く呼びかけた。
さあ 十月二十四日 正午
うち鳴らそう 鐘を 太鼓を
空高く飛ばそう 風船を 鶴たちを
黄色いリボンをつけて 走ろう
歌ごえをあげよう 署名をしよう
ヒロシマ・ナガサキ・アピールに
さあ 平和の波を まき起こそう
創意をこらした 一つ一つの波よ
よりあい 集まり 怒涛となれ
おお 平和の波よ 生のうねりよ
五つの海 五つの大陸をむすんで
世界をめぐり 地球をとりまこう
おお 平和の波よ 愛のうねりよ
いまこそ示そう 人類の無限の力を
人類の秘めた 無限の神秘を
かつて この世界にあっただろうか
このような 人類の連帯が 統一が
このような 人類の共同が 合唱が
おお平和の波よ 希望の波よ
これこそ 死にうち勝つ 生の
生存のための すばらしい弁証法
さあ つつみこみ のみこもう
平和の波の うねりのなかに
核にしがみつく 亡者どもを
(一九八七年十月)
うち鳴らそう 鐘を 太鼓を
空高く飛ばそう 風船を 鶴たちを
黄色いリボンをつけて 走ろう
歌ごえをあげよう 署名をしよう
ヒロシマ・ナガサキ・アピールに
さあ 平和の波を まき起こそう
創意をこらした 一つ一つの波よ
よりあい 集まり 怒涛となれ
おお 平和の波よ 生のうねりよ
五つの海 五つの大陸をむすんで
世界をめぐり 地球をとりまこう
おお 平和の波よ 愛のうねりよ
いまこそ示そう 人類の無限の力を
人類の秘めた 無限の神秘を
かつて この世界にあっただろうか
このような 人類の連帯が 統一が
このような 人類の共同が 合唱が
おお平和の波よ 希望の波よ
これこそ 死にうち勝つ 生の
生存のための すばらしい弁証法
さあ つつみこみ のみこもう
平和の波の うねりのなかに
核にしがみつく 亡者どもを
(一九八七年十月)
「戦争に反対する詩人の会」と湾岸戦争
「戦争に反対する詩人の会」は「詩人も反戦の声をあげなければならない」という鈴木初枝の音頭で始まった全国組織で、一九八二年に発足し、二〇〇二年に解散した。百人でスタートした会員が二五〇人の規模になっていた。年二回「反戦、市民と詩人の集い」を全国各地で開催し、当該地域の詩人たちの力を集めて成功させた。また、パンフレット詩集『反戦のこえ』を年二回定期刊行した。博光は当初から参加して活動し、上田、松本、前橋など各地で行われた「反戦、市民と詩人の集い」で講演した。十九年間、全国の詩人の力を結集して反戦の声をあげ、国家機密法など軍国主義復活の動きに反対して運動するなど大きな足跡を残した。
一九九〇年に湾岸戦争が起こると、博光はアメリカの報復戦争に反対して、詩「いまは走るときだ」(『赤旗』一九九一年二月)、「恐竜ティラノザウルスが」(『平和新聞』二〇〇二年四月)を書いた。
抽象画のように 花火のように
夜空をとびかう 火の矢 火の玉
操縦席のカメラが映しだす 乾いた爆撃シーン
まるでテレビゲームと見える映像のかげで
しかし確実に流され 流れているのだ
たくさんの子どもたち女たち男たちの血が
そして放流された原油でまっ黒に ねっとりと
羽根も油まみれになったペルシャ鵜たち
猫にも 鷲にも 正義はない
いまは 猫を追い 鷲を追って
人間が走るときだ
戦争反対のデモに 署名に
サヴァンナの弱肉強食をやめろ
青い海や空を汚すな
ジャングルの論理に手をかすな
人民の汗も血も鷲のために流させるな
愚かな戦争をやめろ
(「いまは走るときだ」)
夜空をとびかう 火の矢 火の玉
操縦席のカメラが映しだす 乾いた爆撃シーン
まるでテレビゲームと見える映像のかげで
しかし確実に流され 流れているのだ
たくさんの子どもたち女たち男たちの血が
そして放流された原油でまっ黒に ねっとりと
羽根も油まみれになったペルシャ鵜たち
猫にも 鷲にも 正義はない
いまは 猫を追い 鷲を追って
人間が走るときだ
戦争反対のデモに 署名に
サヴァンナの弱肉強食をやめろ
青い海や空を汚すな
ジャングルの論理に手をかすな
人民の汗も血も鷲のために流させるな
愚かな戦争をやめろ
(「いまは走るときだ」)
また、フランスの詩人ゴーシュロンの湾岸戦争を告発した詩「湾岸戦争を見渡す岬」を翻訳し、ゴーシュロン詩集『不寝番』(二〇〇三年)を刊行した。「死を目の前にしてこんな詩集ととり組んでいることを 私じしんがしあわせだと思っています。それはまるで第一線で戦っているようなものですから」と語り、九〇歳をすぎた最晩年まで反核と平和の詩に取り組んだ。 (了)
(『狼煙』79号 2015年12月)
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