嶋田誠三さんの講演会「島田利夫と大島博光の交流」が開催されました。
3章にわけて話されました。
1.島田利夫の詩と その激しく燃えた生涯
2.島田利夫と大島博光の交流
3.大島博光が島田利夫に期待したもの 島田利夫が大島博光から受け継ごうとしたもの
一八歳のとき、ランボウに傾倒していた利夫は学校をやめて詩作に没頭したり山に登ったり、自由を味わっていたが、若い仲間と詩雑誌「ラッパ」を発行した。利夫の作品への反響は大きかったが、大島博光から「あなたの『ラッパ』を人民革命のラッパに」と激励された。それが二人の交流の出発点だった。
大島博光訳のアラゴン「フランスの起床ラッパ」に島田利夫は衝撃を受ける。そしてこの調べが響いている詩「歌いだせ一番鶏よ」や代表作と言われる「ふるさとの川の岸べに」「われらの街はささやきに充ち」を発表した。
しかし、朝鮮戦争が拡大し、党が弾圧される状況で、戦争の危機に立ち向かうため党の最前線の任務に飛び込み、詩作から離れた。五年間の空白の時期。
六全協で党が統一され、正常に戻り、利夫は党務を辞退して詩作に専念することを考えた。友人などと相談、大島博光を訪ねるが、結局党務の責任を考えて断念した。それ以後、党務の傍ら詩作に努力し、迫力あるリズムの変革詩を目指していた。
大島博光が利夫に会いに前橋の県委員会を訪ねたちょうどその日、利夫は谷川岳に登っていて遭難死したのだった。
大島博光は早くから島田利夫に変革詩の方向を指し示した。
日本の進歩的な詩の伝統、プロレタリア詩の流れ、近代的フランスの詩をはじめとする世界の革命的な流れに終始立っていた詩人だった。正統な立場でともに変革の詩を目指した、そのことが二人を結びつけた最大の理由ではないか。
政治反動の暴力が立憲政治の危機、民主政治の子危機、戦争の危機、生活全般の危機として多くの国民がたち上がる市民革命の状況さえ呈しているとき、多くの市民の声が変革の言葉になりつつあるのではないか。
日常的なテーマを歌うときにも、変革の立場にたたざるを得ないようになっているのではないか。
あらためて大島博光の詩のスタイル、利夫の詩のスタイルから学べるのではないか。
東京から見えた小田切さん、埼玉の萩原さんらと。
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