島田利夫と大島博光の交流

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島田利夫と大島博光の交流    大島朋光

 「島田利夫は三鷹の博光宅を何回も訪れていた、幼なかった朋光さんに会ったことも話していた」嶋田誠三さんの言葉を佐相憲一さんが教えてくれました。誠三さんは島田利夫の実兄で、『島田利夫詩集』を出版するために編集を佐相さんに依頼し、博光の話も出たのでした。
 島田利夫は二十七才の若さで谷川岳で亡くなった前橋の詩人。博光はその詩を高く評価し、将来を嘱望していました。二人の交流については殆んど資料がなく、博光が前橋に行ったのかも分かりませんでした。
 嶋田誠三さんに会いに群馬県藤岡市のお宅を訪ねました。八十八歳とはとても思えない若々しさとバイタリティーで博光との交流について語って下さいました。また、兄弟を主人公にした小説「自由への道 戦後激動期の人びと」を掲載した雑誌を頂きました。これにより、たくさんのことがわかりました。

◇中学時代から博光の名を知る

〈私たち兄弟は中学・高校の時から文学が好きで、戦前から『蝋人形』を通して大島博光を知っていました。大島さんの存在は二人の支えになっていました。〉(嶋田誠三氏)
 島田利夫は一九四三年、群馬県立前橋中学校に入学し、日本と西洋の文学を読み始めました。ランボオに魅せられて詩作を始め、大島博光「編輯者の手帳」(『蝋人形』昭和十六年六月号)をノートに抜粋しています。
〈利夫は前橋中学に一浪して入った。背が高くて頑丈で成績がよかったので、幼年学校を受けろと言われたが、「俺は戦争に反対だから受けない」と言って大問題になった。名門中学なので事なきを得たのです。〉(嶋田誠三氏)
 一九四八年四月、前橋中学を卒業し、法政大学仏文科に入学しましたが、二ヶ月で大学をやめ、独学で詩人の道を追求します。ゴーリキー、ショーロホフ、マヤコフスキー、ネクラーソフ等の革命的文学の影響を受け、マルクス、エンゲルス等の芸術論を研究し、十一月、日本共産党に入党しました。

◇『ラッパ』が交流の出発点

〈『ラッパ』を大島さんに送り、激励の手紙を頂いたのが二人の交流の出発点です。〉(嶋田誠三氏)
〈一二月、詩同人雑誌『ラッパ』を発行し、北川冬彦、草野心平、大島博光等の諸氏に認められた。俊介は自分の詩に対する自信を深めたようだったが、詩壇との接触を深めて詩人としての道を開こうという考えは持たずに、革命的な詩の創造のために労働運動、農民運動と接触していこうと考えていたようである。中央の関係では、「あなたの『ラッパ』を人民革命の進軍ラッパに」と激励してくれた大島博光との関係は保って、独自の道を歩もうとしていた。〉
(「自由への道 戦後激動期の人びと」*俊介=島田利夫)
 一九四九年三月、肺浸潤を発病し、約九ヶ月間、結核療養に専念しました。病気回復と共に共同経営の北斗社に入り、ここを基盤に文化活動に従事、前橋うたう会、文学サークル、各種研究会を組織し、前橋文化団体協議会の中心的活動家として活動しました。

◇『フランスの起床ラッパ』を目標に

〈大島さんは健康が相当悪かった。病気で翻訳の仕事もできない。アラゴンの『フランスの起床ラッパ』が出版されたとき(一九五一年二月)、大島さんの健康は回復したんだと喜びました。〉(嶋田誠三氏)
 一九五一年三月、利夫は文学サークル誌『花』復刊一号を発行、巻頭文でアラゴンの詩句「われらの不幸の花束は重い/だが その花の色はかるい」(『フランスの起床ラッパ』─「ガブリエル・ペリの伝説」)を掲げ、この詩句にちなんだ誌名であることを示しました。「歌い出せ一番鶏よ」には「フランスの起床ラッパへの序曲」の調べが響いている(松本悦治『島田利夫試論』)と評されています。
〈アラゴンはナチスドイツの支配下で『フランスの起床ラッパ』という詩集を出した。アラゴンの詩はフランスの人たちを呼び覚ました。このような詩、労働者を呼び覚ます詩をどうしてかけないのだろうか。今の俺は詩壇に用はない。下手に詩人と付き合うと詩が低俗になる。今関係を持っているのは、大島博光さんだけだ。大島さんはアラゴンをやっている。大島さんは翻訳はうまいが詩は駄目だ。それを大島さんは認めている。「今俺は肺結核で、病気では詩も書けない」と言っていた。俺も病気になって大島さんの言うとおりだと思った。……政治の力が、理論の力が、大衆を捉えられないとき、大衆を覚醒させ、立ち上がらせなければならないのは、僕は詩人の任務だと思っている、フランスではランボーが、アラゴンが、ロシアではネクラーソフが、マヤコフスキーがそれをやった。……もっと迫力のあるリズム、労働者の革命性を高めるようなリズム。日本の近代詩でリズムが問題なのだ。〉(「自由への道 戦後激動期の人びと」

◇「ふるさとの川の岸べに」を推薦

 一九五一年五月、島田利夫は『花』二号を発行し、代表作「ふるさとの川の岸べに」と「われらの街はささやきに充ち」を発表、「ふるさとの川の岸べに」が博光の推薦で一九五二年度『日本ヒューマニズム詩集』に選ばれました。
〈「大島さんは推薦する前になぜ自分に相談しなかったのか?自分ではまだ納得した作品でなかった。はずかしくて載せてほしくなかった」と言っていました。〉(嶋田誠三氏)

◇詩から離れて革命運動の最前線に

 『花』二号を発行したあと、党の専従活動に入り、詩作から離れます。詩の空白期間は五年半に及びました。
 〈祖国は今危機にあると俊介は思っていた。アメリカ占領軍による日本共産党ならびに戦闘的労働者への弾圧。朝鮮戦争の拡大。アメリカの極東支配の前線基地としての日本。アメリカの傭兵として日本の青年が再び銃を持たされて戦場に送られる危険。今その危険と真正面から闘う戦線の最前列に就かなければならない。今、詩人に要請されるのは、マヤコフスキーのように、アラゴンのように国民を決起させる詩を作ることだ。今必要なのは変革の詩なのだ。党の要請があれば、自分はその任務に就く。「詩をと問われるならば」その闘いの中で、「その闘いの憎しみのるつぼの中で」新しい革命的リズムを持った詩を携えてくる。その確信が出来るまで、詩とは断絶だ。〉(「自由への道 戦後激動期の人びと」*俊介=島田利夫 )
〈利夫はものすごく理論的で、革命理論から実践から際立っていました。女の子にもてた。低音でしゃべる。背が高い。歌がうまい。全体の流れをつかみ、文学の話、政治の話などしない。皆が革命歌を歌っているとき、「遙かなるサンタルチア」など、違う歌をうたう。赤城山大沼で行われた「山の平和祭」を実行委員長として大成功させた。大変な評判で将来を有望視されました。
 彼はアラゴンを目指しているわけです。「自分の詩は抒情に過ぎ、抒情に流れている、自分は詩ではやれない」といって、それを克服する意味で、党の最前線に入るわけです。その時は火炎瓶なんかを投げている時代、誤った時代です。徳田・野坂一派が大多数を抑えている。まちがえを抱えながらも、その組織で闘うしかない。第一線に飛び込むことが革命家なんだ。そこで頭角をあらわすんです。二十三才で、前橋があり群馬県で一番大きな中毛地区の地区委員長をやった。委員長を一年やってから、県委員会の指導部・ビューロー五人の一人になった。金子満広も一緒だった。中央に引き抜かれると思っていた。平和運動を軽視しているのではないかといって民族解放・反植民地運動の重要性を訴える文書を出して中央に評価された。六全協を経て自己批判して再出発し、常任の仕事をしながら書いたのが「夜どおしいっぱい」です。〉
(嶋田誠三氏)

◇運命の日

 詩作から離れていた島田利夫に会いに博光が前橋を訪れたのは一九五七年八月一九日のこと。なんとちょうどこの時、島田利夫は谷川岳で遭難し、非業の死を遂げたのでした。
〈県委員会に大島さんが来ていた。「利夫君はどうした」「山に登った。大島さん、ちょっと待っていてくれ、探してくるから」夕方になっても利夫は帰ってこなかった。〉(嶋田誠三氏)
 博光は悲報に接して手紙を書いています。
〈なんという悲しいお手紙をいただいたものでしょう。おどろきと痛恨と。わたしはあの日、正午まで、利夫君の元気な顔が見られはしないかと待っていました。正午になっても見えないので、何か忙しいのだらうから、この次の機会に、と思って、午後の汽車で帰ってきました。そのとき、利夫君はもうわれわれの世界から去っていたとは!
 ひまわりのような若ものに 忽ち
 経帷子をきせる悲しみより 深いものは何もない
わたしは利夫君と久しぶりに詩の話などできると期待しながら前橋に行ったのに、もうその夢はなくなってしまった。しかし、思えば、たとえ偶然とはいえ、利夫君の死の時刻に、わたしが彼に会いたいとねがっていたとは、なんということでしょう。──利夫君にもう一ど詩を書いてもらいたい、あの利根川のような歌をかいてほしいというねがいも、消えてしまいました。ほんとうに、春秋に富んだすぐれた同志を失ってしまいました。あなたの悲しみはまた いっそう深いでしょうが、もう 彼の霊のためにも、わたしたちは前進するよりほかはない、そういう気もちでいっぱいです。〉

◇遺稿詩集『夜どおしいっぱい』

〈亡くなった後、遺稿詩集『夜どおしいっぱい』を出すために婚約者といっしょに三鷹に相談に行きました。その出版記念の会を前橋で開いたとき、大島さんは「島田利夫の詩について」という講演をしました。彼の死について党活動の犠牲だなどと言わず、堂々としていて感銘を受けました。〉(嶋田誠三氏)
 博光は「ひとりの党員詩人 島田利夫について」を書いて追悼しました。
 〈「夜どおしいっぱい」の詩人島田利夫は、去年夏、谷川岳一の倉沢で死んだ。二十七才の若さだった。死後、未発表の詩を書きこんだ大学ノート一冊が見出された。そのなかには、この「夜どおしいっぱい」のほかに「夜空は瀝青(チャン)」「みぞれの歌」などの詩が書きこまれていた。それらの詩はいきいきとした芸術性と実践性との統一から生まれたものばかりで、わたしは深い感動をうけずにはいられなかった。わたしはこころのなかで叫んだ。「ここにこそ、ひとり党員詩人がいる!」と。しかもかれはもう死んでしまったのだ。もうとりかえしはつかない。深い哀惜があるばかりだ。
 星より強い お前の労働
 星より強い お前の希望……
 そしておお お前の忍耐!
 これらの詩句はかれが困難なくるしい活動のなかでも、労働者階級の未来に希望を燃やしつづけ多くの苦しみにもじっと耐えてたたかいつづけていたことを、物語っている。
 「夜どおしいっぱい」では、働くものの、行動するものの息吹き、リズムが、力づよいうたとなっている。「夜どおしいっぱい」という力づよいリフレーンが、この詩に重い余韻をもたせながら、この詩をぐっとひきしめている。それはまるで、夜どおし「生身をこがし」ながら働らくものの張りつめた気もちと怒りそのもののようだ。泣きごとなどは言っておられぬ……ここにこそ、この詩人がその実践活動から身をもってひきだしてきた行動のひびき、行動のうたがある。そうしてこのような、おのれの身をもってとらえた現実のひびきと思想性ほど、こんにちわれわれの詩にとって大切なものはないであろう。〉(『アカハタ』一九五八年一月)

◇新刊なった『島田利夫詩集』

 この六月、新刊の『島田利夫詩集』が誠三さんから送られてきました。

  われらの街は ささやきに充ち──
  花から花へ 吹き流れる花粉のように
  家々の扉を結ぶささやきに充ち──

  一人の悩みで 別の瞳を濡らしながら
  恋人でもない 別の瞳を濡らしながら
  涙を誘うささやきに充ち──

  一人ののぞみを 五人のランプに灯しながら
  兄弟でもない 五人のランプに灯しながら
  おののきやまぬささやきに充ち──
  ……
  泉の底に めぐり流れる地下水のように
  われらは持つ そのささやきを
  そのうずき そのどよもし そのたかなり

  野には 野には 流れる花粉
  風荒れる月日の中に
  われらの街はささやきに充ち──
     (「われらの街はささやきに充ち」

 瑞々しい抒情性に溢れながら、働くものへの共感と連帯をうたい、島田利夫の優しく温かい声に励まされる思いがしました。(二〇一五年七月)

〈参考にした文献〉
嶋田誠三「自由への道 戦後激動期の人びと」(『風の街』)
松本悦治『島田利夫試論』(あかしあ書房)
島田利夫『詩集 夜どおしいっぱい』
佐相憲一編『島田利夫詩集』(コールサック社)

(『狼煙』78号 2015年9月)

広瀬川
前橋市内を流れる広瀬川

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