クロヴィス・ユグ

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 クロヴィス・ユグ

 クロヴィス・ユグは、一八五一年、南仏ヴォクリユーズ県の寒村に生まれた。父親は粉ひきで、一八四八年の「二月革命」の支持者であった。母親は熱心なカトリック信者で、息子を牧師にしようと、神学校に入れる。しかし、ユグは神学校をやめて、マルセイユに出て事務員になる。やがて、反ボナパルト派の『人民』紙の編集員となる。
 コミューンがマルセイユで宣言されたとき、かれは二十歳だった。民衆のデモ隊が市役所を占拠したとき、かれは赤旗をもって、先頭に立っていた。
 コミューンにたいする弾圧につづく裏切、亡命、逮捕などの混乱のなかで、かれは敢然として文学および政治の舞台に身を投ずる。一八七一年五月二日、かれは時流にさからって、『共和主義者におくるマリアンヌの手紙』を公表する。それは時の政府にたいする爆弾宣言のごときものであった。この一九ページのパンフレットのなかで、かれはコミューンの圧殺者たちを痛烈に攻撃し、人民のあらゆる不幸の根原である「帝政」を告発している。
 「一家の父親が帰宅しても、子供たちは、待っていたひときれのパンにもありつけなければ、慰めてくれる希望の言葉をきくこともできない。若い娘が夜、行きずりの見ず知らずの男を、じぶんのマントのなかに呼び止める。空きっ腹をかかえた男が強盗に早変りする。これらの不幸や悪をつくり出すのが、貧乏人たちの汗から富を掠めとり、人民の仕事場をつぶして宮殿をもり立て、労働を盗みとって資本を栄えさせ、圧制で労働者をおしつぶす『帝政』でないとすれば、いったい誰に罪があるというのか。」
 しかし、すべては終わってしまった。権力の座についたティエールは、その強権のほどをユグに思い知らせてやる。ユグは軍法会議にまわされ、出版法違反のかどで、懲役三年と罰金六千フランの刑を科せられる。かれは転々と牢獄から牢獄へ移される。しかし、かれは獄中でなお未来を夢みる。

  ・・・・・おれたちは 堂々と胸を張り
  手と手をとりあって まっすぐ前進しよう
  この数世紀は 厳かにおれたちに約束した
  いつか おれたちは 古い世界を倒し
  あらゆる黄金の果実を 摘みとり
  人類の理想を かかげずにはいないと
  なぜなら おれたちは愛の恨みを晴らし
  戦争を根絶やしにしたいからだ・・・・・

  かれは、懲役三年の刑を宣告されたが、四年の獄中生活を送ることになる。六千フランの罰金が払えなかったからである。

  おれは二十歳(はたち)で 牢獄を 知りつくした
  手首にくい込む鎖や 独房の怖ろしさ
  石だたみにからからとひびく木靴の音
  女のくちづけもない 独り居の退屈さ
  それが四年つづいた なんと長かったことか

 一八七五年に出獄すると、獄中で書いた詩をあつめて、『獄中詩集』を出版する。「真実の共和国」にたいする確信-革命的情熱は弱まるどころか、どの詩句にもはげしく鳴りひびいているのである。

  蚤や 虱に 喰われる  
  独房や 囚人船にかけて
  サトリーにいまも鳴り響く
  銃殺班の二十発の弾丸(たま)にかけて
  ドレクリューズをバリケードで
  クレミユをファロで撃ち倒した
  忌(いま)わしい 銃殺にかけて

       リフレーン
  流れる血 煮えたぎる血にかけて
  おれたちの扉を叩く風にかけて
  すべての流刑者の名にかけて
   立て 立て 立ち上れ!
  おれたちの「死者」の復讐を誓おう!

 こうしてユグは、社会主義者として、詩人として、また代議士として、一九〇三年に死ぬまでたたかいつづけた。

 一七八九年のブルジョア革命と一八七一年の人民革命とのあいだで、文学の領域に現われてきたのはロマンティスムである。
 それまで、長いあいだ軽視され、軽蔑されてきた詩が、ロマンティスムによって市民権を獲得する。
 コミューンが勃発するや、ロマンティスムは分裂する。シャトーブリアンに影響された貴族的で保守的な傾向をもった詩人たちと、自由主義的で民主主義的な詩人たちとに分裂する。このあとのグループもたちまち崩壊する。ルコント・ド・リール、テオフィル・ゴーチエらは、ペシミスムに落ちこみ、ボードレール、マラルメなどの詩人たちは、芸術のための芸術 - あるいは純粋詩に沈潜する。しかしヴィクトル・ユゴーにつづいて、政治詩をさらに輝かしく発展させた詩人たちもいたのである。
 クロヴィス・ユグは、このロマンティスムの伝統をうけつぎ、それをさらに進歩的なものに発展させる。かれの詩も生涯も、それをあかしだてているのである。かれは書いている。
 「詩には社会的使命がある。美を描き、讃えることは詩人の任務だが、しかし、美のもっとも高度な表現である正義に奉仕することもまた詩人の任務なのだ・・・・・詩が、夢を理念(イデエ)によっておぎない、理念を行動によって仕上げてこそ、はじめて詩は偉大なのである。」
 ここにはすでに、「詩は実践的な真理を目的としなければならない」というロートレアモンの言葉を新たに掘り起こしたエリュアールの調子が見出されよう。あるいは、詩の法則は「生活によって前へと進み・・・・・『階級』によって、われわれの闘争の要求によって、決定される」と言ったマヤコフスキーを思い出すこともできる。
 この先駆的な革命詩人ユグはこうも言っている。
 「われわれの時代のような、悲劇的な事件ときびしい教訓にみちた時代にあっては、詩人のもつ権利とてはただ、人類とともに愛し、人類とともに苦しむことだけである。詩人は自分の傷口を見つめて憎しみを知り、ほかの人びとの傷口を見て同情を知るのである。」
 コミューンの詩人として、ブルジョア権力とその搾取形態に反対してたたかったユグは、プロレタリアートの詩人としていつまでも残るであろう。そして偉大なコミューンの思い出とともに、ユグの詩も鳴りひびくだろう。

  いやいや おまえ コミューンは死にはしない
  古い世界を根こそぎにするために
  おれたちは おまえの名を投げつけるのだ
  怒りどよめく群衆にむかって
  さあ 飲んで 歌って 愛を語れ
  人民に出番がまわってきて
  運命は 成就されなければならぬ

* 筆者は、一九七八年のひと夏を、パリのコロネル・ファビアン広場に近い、ヴィレット大通り二二番地で過したことがある。この広場から右にだらだら坂をちょっと登ってゆくと、そこにビュット・ショーモン公園がある。あの人工の小さな岩山を池のなかに聳えさせ、そのまた池のまわりには小さな丘をぐるっとめぐらせた公園である。パリ・コミューンの時には、コミューン戦士たちの屍を焼く煙が、幾日もここから立ちのぼっていたといわれる。──この公園の正門を入った突きあたりは、石をあしらった築山になっていて、その石のあいだに、ブロンズの頭部像がさりげなく置いてあった。見ると、そこになんとクロヴィス・ユグの名前が刻んであるではないか。──そればかりではない。地図を見ると、この公園のすぐ北西には、「クロヴィス・ユグ街」の名が見える。フランス文学史上にはほとんど名をとどめていないようなこのコミューンの詩人が、このように彼にゆかりの公園や街にその名前を残しているのに、筆者はむしろ驚いたものである。

 (新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』*新装版 1989年2月)
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