三好十郎「山東へやった手紙」について
大島博光
甚太郎オジサン
コノ袋ノ中ニワ
仁丹ト ウカイ散ト
手ヌグイガ入ットル
・・・
ウカイ散ワ
腹ノ痛カ時二飲ムトデス。
ソシテ 甚太郎オジサン
剣ツキ鉄砲デ
突キ殺ロサレンヨーニシナサイ
こういう書き出しではじまる、三好十郎の「山東へやった手紙」は、昭和二、三年の「山東出兵」に動員された「甚太郎オジサン」に、貧農の少年が、慰問袋といっしょに送った手紙というかたちをとった詩です。山東出兵」は、日本帝国主義が国内の深刻な経済恐慌を解決するはけくちとして、おし進めていた中国侵略の段取りだったのです。蒋介石の国民政府軍の北伐が、日本の中国支配の根拠地である華北、とりわけ満州に及ぶのをくいとめるために、居留民の「現地保護」を名目として干渉し、出兵したもので、それはやがて、昭和六年の「満州事変」からその後の日中戦争へと発展してゆくのです。国内では、経済恐慌とともに高まった革命運動、労農運動にたいして、「三・一五」のような大弾圧が行われたのです。
この詩は、そういう時代のきびしい情勢を背景として書かれたもので、貧農の苦しい生活をつぎのように生きいきと描いています。
・・・
今年カラ田植エノ手伝イヲシタノデ
腰ガ折レソーニ痛カッタ。
シカシ 土手ガ切レルト
又 田ガ メチャメチャ ニナル
スルト 米ガ オサメラレンケン
地主ノ鬼ガ イジメル。
米ヲ作ルノワ 僕達デ
ソレヲ取ルノワ 鬼ダ。
暗イ土手ノ上カラ
暗イ大川ノ水ヲ ジット見テ
ミンナデ ヂット 立ッテイタ
僕ワ 泪ガ出ソーニナッタ。
水ガ ケダモノミタイニ
ウォーウォー ト言ッテ流レタ。
侵略の先兵として山東へ駆りたてられた「甚太郎オジサン」も、こういう農村の、めざめた若者のひとりだったのです。
ホントノ敵ワ支那ジャナカ
殺サンナランノワ 外国ニワ居ラン
ソイデモ出征セニャナラン
支那兵ヲ殺サンナラン
オジサンワ、ソー言ッタ
シカシ ヤッパリ殺シテイル
歯ヲ食イシバッテ殺シテイル。
甚太郎オジサン
殺サンゴトシナサイ
殺サンゴトシナサイ
ここからは、きびしい検閲制度の下で、貧農の少年の口をとおして、声いっぱいにあげられた戦争反対の叫びをききとることができると思います。それは、みずからの矛盾に苦しみながら、こんにちの言葉で言えば、「日中人民不戦」の連帯と、それに敢然とは反対できぬ良心のいたみとをせつせつと訴えてもいるのです。
(自筆原稿)
*三好十郎「山東へやった手紙」は『戦旗』4号(1928年8月)に掲載された詩。
大島博光
甚太郎オジサン
コノ袋ノ中ニワ
仁丹ト ウカイ散ト
手ヌグイガ入ットル
・・・
ウカイ散ワ
腹ノ痛カ時二飲ムトデス。
ソシテ 甚太郎オジサン
剣ツキ鉄砲デ
突キ殺ロサレンヨーニシナサイ
こういう書き出しではじまる、三好十郎の「山東へやった手紙」は、昭和二、三年の「山東出兵」に動員された「甚太郎オジサン」に、貧農の少年が、慰問袋といっしょに送った手紙というかたちをとった詩です。山東出兵」は、日本帝国主義が国内の深刻な経済恐慌を解決するはけくちとして、おし進めていた中国侵略の段取りだったのです。蒋介石の国民政府軍の北伐が、日本の中国支配の根拠地である華北、とりわけ満州に及ぶのをくいとめるために、居留民の「現地保護」を名目として干渉し、出兵したもので、それはやがて、昭和六年の「満州事変」からその後の日中戦争へと発展してゆくのです。国内では、経済恐慌とともに高まった革命運動、労農運動にたいして、「三・一五」のような大弾圧が行われたのです。
この詩は、そういう時代のきびしい情勢を背景として書かれたもので、貧農の苦しい生活をつぎのように生きいきと描いています。
・・・
今年カラ田植エノ手伝イヲシタノデ
腰ガ折レソーニ痛カッタ。
シカシ 土手ガ切レルト
又 田ガ メチャメチャ ニナル
スルト 米ガ オサメラレンケン
地主ノ鬼ガ イジメル。
米ヲ作ルノワ 僕達デ
ソレヲ取ルノワ 鬼ダ。
暗イ土手ノ上カラ
暗イ大川ノ水ヲ ジット見テ
ミンナデ ヂット 立ッテイタ
僕ワ 泪ガ出ソーニナッタ。
水ガ ケダモノミタイニ
ウォーウォー ト言ッテ流レタ。
侵略の先兵として山東へ駆りたてられた「甚太郎オジサン」も、こういう農村の、めざめた若者のひとりだったのです。
ホントノ敵ワ支那ジャナカ
殺サンナランノワ 外国ニワ居ラン
ソイデモ出征セニャナラン
支那兵ヲ殺サンナラン
オジサンワ、ソー言ッタ
シカシ ヤッパリ殺シテイル
歯ヲ食イシバッテ殺シテイル。
甚太郎オジサン
殺サンゴトシナサイ
殺サンゴトシナサイ
ここからは、きびしい検閲制度の下で、貧農の少年の口をとおして、声いっぱいにあげられた戦争反対の叫びをききとることができると思います。それは、みずからの矛盾に苦しみながら、こんにちの言葉で言えば、「日中人民不戦」の連帯と、それに敢然とは反対できぬ良心のいたみとをせつせつと訴えてもいるのです。
(自筆原稿)
*三好十郎「山東へやった手紙」は『戦旗』4号(1928年8月)に掲載された詩。
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