島田利夫──革命運動の最前線に

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島田利夫──革命運動の最前線に

 島田利夫は一九五一年五月、文学サークル誌「花」二号で代表作「ふるさとの川の岸べに」と「われらの街はささやきに充ち」を発表したあと、前衛党の活動に没頭することとなり、詩作から離れた。以後五年半、詩の空白期間が続く。

 祖国は今危機にあると俊介は思っていた。アメリカ占領軍による日本共産党ならびに戦闘的労働者への弾圧。朝鮮戦争の拡大。アメリカの極東支配の前線基地としての日本。アメリカの傭兵として日本の青年が再び銃を持たされて戦場に送られる危険。今その危険と真正面から闘う戦線の最前列に就かなければならない。今、詩人に要請されるのは、マヤコフスキーのように、アラゴンのようにその問いに国民を決起させる詩を作ることだ。今、必要なのは変革の詩が必要なのだ。党の要請があれば、自分はその任務に就く。「詩をと問われるならば」、その闘いの中で、「その闘いの憎しみのるつぼの中で」新しい革命的リズムを持った詩を携えてくる。その確信が出来るまで、詩とは断絶だ。
*俊介・・・島田利夫
(嶋田誠三「自由への道 戦後激動期の人びと 13 台風迫る」『風の街42』2015.3 )

 彼はアラゴンを目指しているわけです。「自分の詩は抒情に過ぎ、抒情に流れている。詩人は変革者、自分は詩ではやれない」といって、それを克服する意味で、党の最前線に入るわけです。その時は火炎瓶なんかを投げている時代、誤った時代です。徳田・野坂一派が大多数を抑えている。まちがえを抱えながらも、その組織で闘うしかない。第一線に飛び込むことが革命家なんだ。そこで頭角をあらわすんです。23才で群馬で一番大きな中毛地区委員長をやった。地区委員長を一年やってから、県委員会の指導部・ビューロー5人の一人になった。金子満広も一緒だった。中央に引き抜かれると思っていた。平和運動を軽視しているのではないかといって、民族解放・反植民地運動重視の平和の文書を出して中央に評価された。常任の仕事をしながら書いたのが「夜どおしいっぱい」です。

 利夫は先進的でものすごく理論的。彼の年齢からすると革命理論から、実践から際立っている。いつも孤独で、山に向かった。女の子にもてた。低音でしゃべる。背が高い。歌がうまい。皆が革命家を歌っているとき、「遙かなるサンタルチア」など、違う歌をうたう。赤城山大沼で行われた「山の平和祭」を実行委員長として大成功させた。大変な評判だった。有望視されていた。

(嶋田誠三氏談)

この期間の活動歴はつぎのようになります。
一九五二年(二三歳)
一月、日本共産党群馬県中毛地区委員会の専従となり、青年・文化・学生の各対策部責任者となった。
六月、中毛地区委員会労働対策部責任者となり労働運動を指導、富士、三共、明星など金属工場労働者をオルグして工場に党の組織を建設し、労働組合運動を指導するなど、放置されていた経営内の党組織を掘り起こした。
一九五三年(二四歳)
中毛地区ビューロー(非公然指導部)員となった。
一九五四年(二五歳)
五月、中毛地区ビューローキャップ(非公然地区委員長)となった。平和運動、労働運動に成果をあげた。
一〇月、群馬県委員会ビューロー員となり、農民対策部を受け持ち、妙義基地闘争の指導に当たった。
一九五五年(二六歳)
第六回全国協議会が開かれ、党の統一の基本方向と、今までの左翼冒険主義の誤りが正された。山と詩作に対する情熱がよみがえった。県常任委員をやめ詩作に没頭することを考えたが、党務の責任を考えて断念した。
一九五六年(二七歳)
一月、第一回群馬県党協議会で県委員に選ばれ、常任委員となった。
一九五七年(二七歳)
四月、第一三回群馬県党大会で県委員に選ばれ、常任委員となった。
八月一九日、谷川岳一ノ倉沢第四ルンゼに単独登攀中、天候悪化し、頂上へ約二百メートルの地点より墜落、死亡した。
(松本悦治『島田利夫試論』、嶋田誠三『詩集 夜どおしいっぱい抄』より)

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