島田利夫と「フランスの起床ラッパ」

ここでは、「島田利夫と「フランスの起床ラッパ」」 に関する記事を紹介しています。
島田利夫と「フランスの起床ラッパ」

1951年3月、島田利夫は文学サークル誌「花」復刊1号を発行した。巻頭文でアラゴンの詩句「われらの不幸の花束は重い/だが その花の色はかるい」(「ガブリエル・ペリの伝説」)を掲げて、次のように書いた。

「花」の刊行が挫折してから半年の月日が流れた。そしてこの飛び去る時間を追いながら、私達は焦らだちと悔やみの中に日を送った。明るい明日を心の中に揺りながら何と暗い今日の日に私達は黙し続けていた事か。・・・だが私達も夏と冬にまたがるこの期間を決して無為に過しはしなかった。・・・そして今、共鳴りの時節が来た。共鳴りは喜びにおののき、喜びは再びその呼びかけを「花」の中に野望する。

島田利夫がこの雑誌に載せた「歌い出せ一番鶏よ」には「フランスの起床ラッパへの序曲」の調べが響いていると言われる(松本悦治『島田利夫試論』)。

このころ島田利夫は「フランスの起床ラッパ」について次のように語っている。
アラゴンはナチスドイツの支配下で『フランスの起床ラッパ』という詩集を出した。アラゴンの詩はフランスの人たちを呼び覚ました。このような詩、労働者を呼び覚ます詩をどうしてかけないのだろうか。

今の俺は詩壇に用はない。下手に詩人と付き合うと詩が低俗になる。今関係を持っているのは、大島博光さんだけだ。大島さんはアラゴンをやっている。大島さんは翻訳はうまいが詩は駄目だ。それを大島さんは認めている。「今俺は肺結核で、病気では詩も書けない」と言っていた。俺も病気になって大島さんの言うとおりだと思った。俺もしばらく詩を書いていなかった。だがやっと書き出した。

(1950年、朝鮮戦争の危機が迫るなかで労働組合は破壊され、共産党は占領軍に追い詰められ、ゼネストも打てない閉塞の時代に)・・・政治の力が、理論の力が、大衆を捉えられないとき、大衆を覚醒させ、立ち上がらせなければならないのは、僕は詩人の任務だと思っている、フランスではランボーが、アラゴンが、ロシアではネクラーソフが、マヤコフスキーがそれをやった。
・・・リズム、それが叙情的なのだ。もっと迫力のあるリズム、労働者の革命性を高めるようなリズム。日本の近代詩でリズムが問題なのだ。

(嶋田誠三「自由への道 戦後激動期の人びと9」『風の街」38 2013年)

彼が「フランスの起床ラッパ」を目標にしていたことがわかる。

花
関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/2586-679d075e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック