戦争をどう書くか ──ジャック・ゴーシュロンの詩「湾岸戦争を展望する岬」にふれて(中)

ここでは、「戦争をどう書くか ──ジャック・ゴーシュロンの詩「湾岸戦争を展望する岬」にふれて(中)」 に関する記事を紹介しています。
 第二節は、作者の国に戦争がやってきたときの状況やその思い出などが書かれているが、「おれたち」人民の対応、反抗、抵抗などが目につく。「鉄道線路のとっ払い」は、第二次大戦における抗独抵抗運動を思い出させる。
 そして、

   おれたちはやつらの鉄砲の台尻に噛みついた

 というランボオの詩句がそれと言わずに引用されている。それは、戦争反対、権力反対の象徴として引用されており、ランボオの詩句もここではもはや民族的記憶ともなっている。だが、それらの反抗、抵抗にもかかわらず、「どんちゃん騒ぎの世界」──戦争は、正義や民主主義の名において「おぞましい独裁者」によって遂行される。しかも独裁者は、自然発生的に生まれてくるのではなく、戦争から生まれてくる、軍需産業体制から生まれてくる……、そのことを第三節は明らかにする。

  死の武器の大取引
  爆弾の雨が降り そして屍はよみがえる
  死者はいない とひとはきみたちに言う
  さあ行った行った そこに見るべきものは何もない
  大砲は大きく口を開けて戦争は終わるだろう
  廃墟が相変らずその黒い歯をむき出している

 ここで初めて、湾岸戦争がそのものとして登場してくる。アメリカが宣伝した、死者のいない「きれいな戦争」があばかれる。それは、みごとに編集されたテレビの報道画面によって宣伝される。つまり、花火のように飛び交うミサイルの閃く弾道が美しく報道されて、その他はすべて闇のなかに隠されたのだ。例えば、そのとき発射された残虐兵器劣化ウラン弾による症候群は、十年後のこんにちも怖るべき後遺症として残り、多くの奇形児を生んでいるのである。まさに「廃墟が相変らずその黒い歯をむき出している」のだ。
 この詩では、アメリカの名は一度も呼ばれていない。湾岸戦争はアメリカが無理にもしかけたものであるから、あえて名ざすこともないかも知れない。たとえ、アメリカの名を名ざすことがなくとも、湾岸戦争の正体、本質を描きだすことは、独裁者アメリカを描きだし、あばきだすことにほかならないであろう。詩人はそのおぞましい姿をつぎのような肖像画に描いている。

  大恐竜が緋色の王衣をでんとまとっている

 こんにち、他者を思いみることなく、世界制覇をめざして「単独行動主義」をとるブッシュほどに、この風刺的な戯画にふさわしいものはいないだろう。
 このような事件の詩、状況の詩を、ゴーシュロンは意識的に追求する。「私は事件の詩へのアプローチを試みた。それは、悪趣味の限りの、論争的な大胆さをもち、しかも事件の彼方にまでとどき、真実のダイナミックな力学を発揮させる射程をもつ、そんな事件の詩である」(Faites entrer l'infini 誌二五号)
 ところで、戦争という事件は、多くの側面をもつ巨大な出来事である。巨大な象のようなものだということもできる。鼻や耳を描くだけでは、象を描いたということにならない。できるだけ多くの側面を掘りさげて、戦争の本質を明らかにする必要があろう。
 この詩の「まえがき」にも、この状況の詩への言及がみられる。
「不純な詩、非純粋詩poesie impureは、もろもろの事件、つまり体験された歴史が、われわれの内面生活に与える反響から生まれ、状況の記憶から生まれる」
 この非純粋という概念、言葉をはじめに用いたのはネルーダPablo Nerudaであろう。スペイン市民戦争の初期、外交官としてマドリードに駐在していた彼は、詩誌『緑の馬』に書いている。
「われわれの追求している詩は、酸にむしばまれたように手仕事ですり切れ、汗と煙がしみこみ、小便と百合の匂いがし、法の内外で営まれるさまざまな職業のしみがついているような詩である。
非純粋詩は、着物や肉体のように、食べもののしみ、恥かしげな身振り、皺、観察、夢、徹夜、愛の告白、憎しみの表明、野獣、動揺、恋歌、政治的信念、否定、懐疑、断定、負わされる者たち、などをもつ」
 ネルーダの非純粋詩論は、実作者にふさわしく、具象的でイメージにみちみちている。小便の匂いまで書きこんでいる点は、やはり悪趣味を恐れない態度を示しているようである。それにたいして、ゴーシュロンの評価は、理論的に練りあげられ、深められた、詩的認識論となっている。引用した文章につづいて、彼はこうつけ加えている。
 「いったい、われわれの歴史的な、政治的な、社会的な環境に起こる事件から切り離された、他者を受けつけないような『自我』というものを誰が想像できよう」
 これらの言葉の意味するところは、このような現実から切り離された「自我」の内面こそが、純粋詩の世界であるということであろう。
(つづく)



(『民主文学』2002年9月号)

*湾岸戦争を見渡す岬 >>

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