戦争をどう書くか ──ジャック・ゴーシュロンの詩「湾岸戦争を展望する岬」にふれて(上)

ここでは、「戦争をどう書くか ──ジャック・ゴーシュロンの詩「湾岸戦争を展望する岬」にふれて(上)」 に関する記事を紹介しています。
戦争をどう書くか 

──ジャック・ゴーシュロンの詩「湾岸戦争を展望する岬」にふれて
                                               大島博光
               
 二十一世紀の門出は、衝撃的なテロと、それにたいする気ちがいじみた報復戦争によって血ぬられた。アメリカの繁栄と力の象徴として聳えていた、世界貿易センターの二つの塔とワシントンのペンタゴンとが、姿の見えない影のような男たちによって襲撃され、崩壊させられ、たくさんの市民たちが殺された。これにたいして怒り狂ったブッシュは、間髪を入れず戦争を叫び、自分の犯してきた悪逆を棚に上げて、見えない敵にむかって報復戦争を宣言する。アメリカ国民の多くもこのヒステリーに同化して星条旗を振ってみせる。なぜアメリカはこういう仕打ちを受けるのか、自分たちはヒロシマ・ナガサキに原爆を投下し、ヴェトナム戦争や湾岸戦争という暴虐を犯してきたのではないか、と静かに反省し、考えてみるという冷静さは求むべくもない。それはやがて時がたてばやってくるだろう。
 ──こうしてテロ撲滅を口実にしスローガンにした報復戦争が、アフガンにひそんでいる、見えない敵にむかってはじめられる。この見えない敵が、ニューヨークのテロの犯人だという証拠は示されなかった。そしてよくみれば、その見えない敵とは、むかしアフガン侵攻のソヴィト軍に対するアフガン側ゲリラとして、アメリカが手塩にかけて育てた手の内の男だった。子飼いのものに噛みつかれるとは、いかにアメリカが悪事を働いてきたかを想像させるに充分である。さらにまた、アフガンの地は、アメリカがかねてから狙っていた石油利権のからんだ有名な土地であることを思い出しておこう。
 戦争の模様は整理され、編集された報道画面となって、連日放映された。アメリカの爆撃によって、いつものように、たくさんの罪のない子どもたち、女たちが殺された。すると、それは誤爆だったという言葉でかたづけられる。さらに何百万もの難民が飢えと寒さのなかに投げ出される。世界一を誇るアメリカの軍事力は、たちまち山岳地帯にかくれた影の軍団を追いつめ、穴のなかの狐のように撃ち殺し、作戦は予定通り、成功裡に終結したというが、残虐な爆撃はまだ続いている。そればかりか、ブッシュはさらに、イラク、シリアへと戦争を拡大すると宣言する……。
 これら、ニューヨークの同時多発テロからアフガン戦争にいたる事件にたいして、日本の詩人たちはかつてない反応を示し、これらの事件にたいするたくさんの詩が書かれたし、いまも書かれている。それはたいへんよいことである。いままで外部世界や状況などには関心を示さなかったような、いわゆる純粋詩人たちさえ声をあげて、事件の詩を書いたのである。ニューヨーク貿易センターを「バベルの塔」と呼んで、秀抜な詩を書いた詩人をわたしは忘れない。また、くにさだきみ「足が落ちてくる」というショッキングな詩も忘れられない。

  ──ぶらーん
  ──ぶらーん
  アフガニスタンの
  真青な空から 二本の足が落ちてくる。

  赤十字が
  この国の 足を失くした人々のため……
  支援の義足を撒くのだという。
  二本ずつ 二本ずつ
  パラシュートの紐に括りつけて──
             (『稜線』七七号 二〇〇二年四月刊)

 「真青な空から 二本の足が落ちてくる」──この異様な、忘れがたいイメージによって、この詩は戦争の不条理を告発し、言語に絶する戦争の悲惨さを描き出している。そしてそれはそのまま、報復の名や正義の名で戦争を遂行する者を告発しているのである。この詩は、戦争のひとつの側面を異常なイメージでとらえたすぐれた詩ということができよう。
 わたしもこの戦争を詩に書こうと努めたが、なかなか思うように書けなかった。──戦争を詩に書くとはどういうことなのか。どのように戦争を詩に書くのか。

 ちょうどその頃、フランスの詩人ジャック・ゴーシュロンの詩集『不寝番』 Etat de veille(一九九八年)がわたしの手に入った。ゴーシュロンはアラゴンの後継者のひとりともみられる戦闘的な詩人で、この詩集は彼の状況の詩、事件の詩を集めたものであった。なかでも、「湾岸戦争を展望する岬」という詩は、十一年前の湾岸戦争をとり扱ったもので、その迫力はわたしを圧倒せずにはおかなかった。
 この詩は、十年後のアフガンの報復戦争をも十分に照射している、とわたしは思った。
 「湾岸戦争を展望する岬」の第一節は、その時代の一般的状況の喚起からはじまる。

  わが地球は真夜中 相変らずまだ真夜中だ
  心の流れの上でも愛の戦線の上でも真夜中だ
  悲しみと歯ぎしりの真夜中
  時代の奥底から消えやらぬ怒り
  戦争という老いぼれの大根役者が
  またしても舞台にしゃしゃり出てくる時

 これはこんにちの状況にもそのままあてはまる。しかもその闇はいっそう不気味に深まってさえいるだろう。ここでは、「歯ぎしり」のようないらだち、怒りの仕草や感情が時代意識を深めるものとなっている。
 そして戦争は「老いぼれた大根役者」として擬人化されて登場し、舞台で戦争劇を演じるという仕掛けになっている。現代的戦争は「大量の鉄鋼/アルミニュウムの爆撃機/銀の飛行機……」という冷たい武器の物量感によって暗示され、それにたいして人民の首を「締めつける貧困の首輪」が対置される。
 そしてはじまる悲劇は、

  悲劇でさえもない
  世にも愚劣なドラマ あの昔ながらの陳腐な戦争劇だ

  金持ちどもの太鼓腹の 抑えがたい欲望のように
  倣慢な文明の癌よ

 舞台にくりひろげられるのは、金持ちどもの欲望が演じる「世にも愚劣なドラマ 昔ながらの陳腐な戦争劇」である。
 ついで「まさか」という不安にみちた懸念につづいて、「人間もひとつの自然消滅を迎えるのか」という、恐怖の疑問が投げかけられる。それは、こんにちの戦争が、いつ人類の消滅につながるとも限らない、という怖るべき危険をかかえていることへの深い不安の表出にほかならないだろう。
(つづく)

(『民主文学』2002年9月号)

民主文学
関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/2531-57082a21
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック