大島博光全詩集あとがき(中)

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大島博光全詩集あとがき(中)

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 一九四六年二月のある雪の降る日、日本共産党の演説会が長野市でひらかれた。演説をきいて感動したわたしはその場で入党申込書に署名した。わたしにこの決意を堅めさせたものは、学生時代にかいま見た党の姿の雄々しさであり、「帝国主義戦争は敗北に終わるであろう」という党の戦前の見通しの正しさが眼の前で歴史的に証明されたことへの驚嘆であり、そうして戦争中のあの穴倉のなかの詩から抜けでたい、抜けでなければならないという激しい願望と衝動であった。そのときわたしは三十六歳であった。
 戦後のわたしの詩については、『民主文学』(一九八五年五月号)の「誌上インタビュー」において触れているので、それを引用しておきたい。
 わたしは詩集『ひとを愛するものは』の「あとがき」につぎのように書いている。
 「わたしは元来レアリスムからは遠いところ、むしろレアリスムとは相反するところから出発した。わたしは戦前から戦中にかけて青春を送った世代にぞくしているが、党員になる前のわたしは多かれ少なかれ芸術至上主義者であって、きわめて狭い内面生活をうたうことしか知らなかった。外部では、苛烈な階級闘争がおこなわれ、治安維持法をふりかざした特高によって小林多喜二が虐殺され、とうとうとファシズムがのさばり、侵略戦争がおし進められていたのに、それがそのものとして見えなかった。見ようともしなかった。……そういう外部世界、状況、歴史は、詩とは無縁のものだとわたしは思いこんでいた」
 戦争中のわたしが詩について抱いていたこのような考え方、態度は、詩の分野におけるブルジョワ・イデオローグたちが、こんにちもなお宣伝にこれつとめているところのものである。新しいよそおいやニュアンスなどのちがいはあるとしても。戦後のわたしの詩は、このような自分の戦争中の詩にたいするアンチ・テーゼであった。
 といっても、このアンチ・テーゼをどれほど実現しえているかは、わたしじしんにはわからないが、それはわたしにとって容易なことではなかった。現実世界を発展してゆく姿において捉えること、しかもその典型をとらえて描くということを知らずに、観念的にひとりよがりに書いてきた、古いおのれの詩を変えることは、単なる頭の切り換えだけでできることではないからである。おのれの古い詩を変えるには、新しい思想を身につけると同時に、実践をとおしておのれの古い人間そのものを変えるよりほかに道はない。つまり意識と話法を変えるには長い時間にわたる実践的過程が必要なのである。
 詩になにを書くかの問題についていえば、たとえば状況の詩、政治詩を否定するブルジョワ・イデオローグたちは、外部世界、状況を詩にもちこむことは詩の後退であり、詩の貧困であって、詩に政治をもちこんではならないと説教している。戦争中のわたしはこういう禁制をうけいれていたのであって、わたしにもたくさんの「禁じられた言葉」があった。したがって新しい詩を書く第一歩はまずこういう禁制をみずからとっぱらい、みずからに禁じていた言葉を解放することであった。
 詩における形式の問題についていえば、たとえば定型という問題がある。日本には、俳句、短歌という定型詩型があるが、詩にはそれほど決定的な定型はないし、現代詩にあってはそんなことを問題にする意識すらないようである。それにもかかわらず、わたしが形式らしいもの、ソネット形式などを採用しているのは、アラゴンの詩論に負うところが大きい。アラゴンは、詩の内容における個人主義を克服すると同時に、形式における個人主義を克服しなければならないといって、フランス詩における民族形式──伝統的な定型の採用を主張し、実践し、その定型に新しいひびきを与えた。フランス詩の定型は、脚韻、胸韻、一定のシラブルなどをもった詩句versのさまざまな組み合わせから成り立っている。むろんわれわれのところには、そのような詩句の概念はない。しかし、われわれのところにも伝統的な音数律があり、語呂あわせにみられるようなかたちでの頭韻、脚韻も考えられるのだから、それらを採用して、定型とまではゆかなくとも、形式にたいする意識なり精神をもって詩を書くことはまったく無意味というわけではあるまい。──それが、わたしが形式らしいもの、ソネット形式などを採用した理由である。それがどれほどの効果をあげているかどうかは、わたしにはわからない。ただ、何ほどかの言葉のひびき合いを創りだし得たと思ったとき、創りだした者のひそかな悦びのあったことを、わたしは告白しておきたい。言葉の音楽といわれるものが、詩を構成するところの要素のひとつであるとすれば、それを否定しさるよりは利用した方が詩の豊かさのためにも役立つであろう。そしてそれは、なんら詩におけるレアリスムをそこねるものでも、それに相反するものでもないのである……」
 こんにち、詩にはなんの禁制もタブーもない。状況の詩は時局詩にすぎないというような嘲笑や禁制をとっぱらって、詩人はすべてを歌うことができるし、また歌わねばならない。
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つづく

大島博光全詩集あとがき(上)

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