スウルレアリストの抗議──ランボオ再建記念像の除幕式にあたって

ここでは、「スウルレアリストの抗議──ランボオ再建記念像の除幕式にあたって」 に関する記事を紹介しています。
 スウルレアリストの抗議
                          大島博光譯

 一九〇一年シャルルヴィルに建てられたランボウの記念像が世界大戦中独逸軍に破壊されたことは余りにも有名な話である。
 再度の記念像が、一九二七年に造られた。スウルレアリズムの詩人達は、銅像建設委員どもが、少しも正当にランボウを理解してゐないこと、従つて記念像再建が一つの冒涜に過ぎないこと等に憤激して、除幕式の際、左に紹介する抗議文を、委員の手許に送付した。文中の六号活字は、ランボウの手紙、散文詩その他からの引用文である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   抗議文

      スウルレアリスムがなかったなら,私は少し
      しかランボウを理解しなかったであろう。
             ──エルネスト・デゥラへイ──

  一九二七年十月廿三日 於巴里
  アルデンヌ州議員殿
  シャルルヴィル市長殿
  諸名士殿
  アルデンヌ詩人協会長殿

 今日、諸君はアルチュル・ランボオ再建記念像の除幕式を挙げ、そのために地方的な小さな祭典を催す責任を有して居られる。諸君の企てにまたしても輿論の参興が欠けてゐることは遺憾である。それでは何にもならないことはわれわれが保證する。実に諸君は、ルイ・バルテゥ氏を混乱させることにも、たとへ一瞬時ではあれコムミュニスムから受けた不安を感ぜぬまでに氏を導くことにも、又最近氏が牢獄の御用商人たる役割を演じて奔走の余り忘れ果ててゐたかに見える進歩主義者たる投割を、氏の裡に自覚させることにも、成功しなかつたのではあるまいか。
 諸君、諸君は愛国的熱狂に赴くには機会を間違った。諸君の祭らんとするところのものは諸君にとって嫌悪の姿態と憎悪の表現に過ぎない。かくて諸君は、フランスのために死んだ作家──エリオットの所謂、「大戦中にフランスが守つたところのものを一身に集めてゐた精神の騎士達」──の光栄とは全然反対の光栄を永遠に享受するに過ぎないであらう。
 実に、諸君はランボウとは何者であるかを知らない、諸君は新にランボウを彼自身によつてよく知るべきである。

 僕の生れ故郷の町は田舎の町々の間でも一等愚劣だ。こんな町にもう夢を織るまい。町はメツチイエル──二度と見られない町──の傍にあるからだ、町の通りを歩兵が二三百ぶらついてゐるからだ。あのメッツやストラスブルグの包圍された連中とはちがつて、お利巧さうに決闘好きで、勿体ぶつた幸福な民衆がぶらついてゐるからだ。凄じいことには、後備の乾物屋が軍服を着けてゐる。更にひどく驚くことには、公證人、硝子屋、収税吏、指物師その他すべての有象無象が鐵砲執つて、祖国は立てり!と、メッツイエルの城門を守つてゐる。……僕は、僕は坐つてゐる祖国の方が好きだ。長靴を動かすな! それが僕の信條だ。
            (一八七〇年八月廿五日)

 祖国のために死んだ戦死者の記念像の存在と、敗戦主義──戦争中諸君が銃殺した活動的敗戦主義──の最高観念の権化であつた人間の記念像の存在とを、諸君は町内で如何に調和させるのであるか。それを知ることはわれわれには興味深いことである。

 戦争──メッチィエル攻圍の足並み。いつまで続くのか。誰もそのことはしやべらない……──あちらにもこちらにも義勇兵。馬鹿さ加減の醜悪な痒疹(さかしい)、それが民衆の精神だ。ひどい物音が聞えて来る。うるさい! まるで風俗壊乱だ。
               (一八七〇年十一月三日)

… … … … … … … … … … … … … … … … 
僕はアルデンヌがもっともつとひどく占領され、しぼりとられることを切に切に願ふ。しかし、依然として変らない。
                 (一八七二年六月)

… … … … … … … … … … … … … … … … 
一昨日、こゝから七粁のヴッツイエルで 一萬のプロシヤ人の一群を見た。それですつかり僕は愉快になつた。
                 (一八七三年五月)

 フランスは凡ゆる方法でランボウを嫌悪させたのである。フランスの精神、その偉人、その風習、その法律は、ランボウにとつて世界に存在し得る最も無意味なもの、最も低級なものを象徴してゐたのである。

 何んといふ醜悪さだ、このフランスの田舎は。何んといふ汚さだ、何んといふ無智の怪物だ、この百姓達は。晩に一寸飲むためには二里以上も歩かねばならない。母はこんな憂鬱な穴に僕を閉ぢ込めてゐるのだ。
                 (一八七三年五月)

… … … … … … … … … … … … … … … … 
いつもながら、肺病で滑稽で意地悪なフランスの植物だ。脚の短い犬の腹が
そのくらがりをおつとり航海する。
… … … … … … … … … … … … … … … …
 

 ミュッセはわれわれ幻影に憑かれた苦悩の世代にとつて十四回も憎むべきである。如何に彼の天使の怠惰が汚辱したことか。おゝ、下手なコントと諺。おゝ「夜」も「ロオラ」も「ナムウナ」も「盃」もすべてフランス的だ、即ち極度に憎悪すべきだ。フランス的だが、パリ凰ではないのだ。またもこの恨むべき天才の一作がラブレエ、ヴォルテェル、テェヌ氏に註釈されたジャン・ラ・フォンテェヌを鼓吹したのだ。青春なるかな、ミュッセの精神は! 愛すべきかな、彼の恋愛は! こゝ
に七寶焼の絵画が、確乎たる詩がある。「フランス的」な詩がしかもフランスに於て長い間玩味されるであらう。
             (一八七一年五月五日)

 ランボウとは? 彼は目前の死者に人口が敬礼するのに我慢出来なかつたものである。彼は教会の壁に「神なんかくたばれ!」と書いたのである。彼は「鐵兜をつけた七三個の軍団と同じ位不撓不屈な」母を愛さなかつたのである。
 ランボウとは? エルネスト・デゥラヘイ氏の証言によればコムミュニストであり、「ボルシェヴイスト」である。

 ──必重な破壊だ……ほかの古い樹も伐り倒されねばならない。ほかの古い樹蔭での愛すべき習慣も失はう。この社会そのものも。社会にも斧が入れられ、鶴嘴が入れられ、修道轆(ぢならし)が轉ばされるだらう。「すべての谷は埋められ、すべての丘は低められ、曲りくねつた道は眞直になり、凸凹の道は平坦になるだらう。」財産は平坂され、個人的な倣慢は打ち挫かれるだらう。「おれが一番金持で権力家だ。」と、もはや誰も云ひ得ないだらう。あの傷しい羨望と阿呆な讃嘆とは、すべての人々の間の平和な和合や平等や労働によつて置き代へられるだらう。」
                                                  
 ランボウとは? 彼も諸君の如く生活したのである、シヤルルヴィル愚民諸君、だが考へても見給へ、これが生きるなどと言へやうか。彼は酔っ払っぱらつた、彼はなぐつた、彼は橋の下に寝た、彼は虱にたかられた。
 しかし、彼は働くことを怖れたのである。

 断じておれは働くまい。
… … … … … … … … … … … … … … … … 
 働くことは嫌らしい。
… … … … … … … … … … … … … … … … 
 決しておれたちは働くまい、あゝ火の悔が!
… … … … … … … … … … … … … … … … 
 おれには凡ゆる職業が怖ろしい。親方も職工も、すべての汚い百姓も。ペンもつ手も鋤執る手も同じことだ。──何んと手ばかりもの言ふ世紀だ。──おれは手なんか持つまい。

 地上にも何處にも何らの希望をつながなかつた彼は、たゞいつも何處かへ出掛けて行くことばかり考へてゐた。諸君の決して知ることのないあの怖るべき倦怠(アンヌイ)の虜(とりこ)になつて。彼は世界を股にかけ、荒涼たる土地にまで、彼自身にもわれわれにも。最も悲しむべき影像(イマアジュ)を求めて駈け巡つたのである。

 あゝ、私はもはや人生のすぺてに何の繋がりも持つてゐない。生きてゐると云つても、疲労を食つて生き……そのひどい気候の中で、途徹もなく激しい遣瀬なさで身を養ふ習慣になつてゐるだけだ……一体、われわれはこの人生で数年間のほんたうの休息を楽しむことが出来るのか。「幸ひにこの人生はたつた一つであり、それは明白なことだ。」といふのはこの人生よりももつと大きい退屈(アンヌイ)のつきまとつたもうひとつほかの世なんか想像することも出来ぬ。
         (一八八一年五月廿五日、アデンにて)

 諸君の汚はしい貧弱な人生を組み立ててゐる凡ゆるものへは彼の気に喰はなかつたのである。彼はそれらすべてを嘔吐したのだ。

   みんな戦争に、恐怖の復讐に行く。
   おれの心よ、傷口の中に引き返へさう。 
   おゝ、行け行け、この世の共和国!
   皇帝、聯隊、移住民、群衆、もう沢山だ!


 彼は常にこの世に存在するものには反対であつた。諸君は単にそれを忘れた風をしてゐるに過ぎないのだ。誤魔化さうとし給ふな。諸君は「ざらにある」詩人のためには記念像を建てないで、この記念像を怨恨と下劣さと復讐とを以つて建てるのだ。諸君は「徒刑場にいつも閉ぢ込められた手のつけられぬ徒刑囚」を讃美してやまなかつた者を、汚はしい土地の醜悪な半心像に變形しようとするのである。

                シャルゝヴィル停車場廣場
   樹も花もみな端正な辻公園
   けちな芝生で裁(た)たれた廣場は、
   暑さにブルジョアが息切らし
   毎木曜の晩、その愚劣さをお大事に持参する。

 「この世のものごとの奇怪な反覆、とペリション氏は書いてゐる、一九〇一年に建てられた銅と花崗岩のランボウ記念像はこの停車場廣場に立つてゐる。この停車場贋場へは毎木曜日にシャルルヴィルの市民がいつよりも軍楽隊を聴きに行く。しかも、この軍楽隊は記念像の除幕式に「酔ひどれ船」に霊感を得たエミイル・ラテの交響楽の改作を演奏したのである。」  
 軍楽隊! 諸君は歌手のことなんか忘れて了つてゐる。
 諸君の顔が「イエスの腐つた接吻」のためにつくられてゐるやうに、「旗は汚らはしき風景の中を進む」のである。
        ★
 影は侵略的な沼の上に日々重く濃くなるやうである。偽善はその醜悪な手を人間の上に拡げる。常に闘ひとつたものを保存しょうとするわれわれの愛する人間の上に。勿論われわれはかかる公奪の企てに誤魔化されはしない、諸君の恥ずべき習慣的な運動にひどく驚きもしない。全体的完成の力は諸君を裏切つて、世界の眞に霊感を得たすべてのものを鼓舞することとわれわれは信ずる。☓☓☓☓の記念像が完成しようと、☓☓☓☓の全集が出版されようと、最も破壊的な理知(アンテリジアンス)が利用されようと、われわれには大した問題ではない。何故なら、彼等の素晴らしき毒液は永遠に青年の魂の中に浸み込んで行き、彼等を汚すか偉大にするかどちらかである。
 今日、除幕される記念像は恐らくこの前の銅像と同じ運命を辿るであらう。この前の銅像はドイツ人によつて破壊され、弾丸の製造に役立つた筈である。そしてランボウは、その弾丸のひとつが諸君の「停車場廣場」をこつぱみぢんに粉砕し、又彼の光栄を汚らはしくも周旋しようとした博物館を、灰燼に帰するのを待つてゐたのである。

 牧師、先生、師匠の方々(かたがた)、君達が間違ってゐる、おれを裁きの手に引き渡すなんて。おれはかつてクリスト教徒だつたことはない。おれは地獄の苦しみの中で歌歌ふ人種なんだ。おれは法なんか理解しない。良心なんか持ち合はせぬ。おれは獣なんだ。君達が間違つてゐるんだ。      
 
 アレキサンドル、アラゴン、アルプ、バロン、ベルナアル、ボアファアル、ブルトン、カアリイヴ、デスノス、デュアメル、エリュアル、エルンスト、ジェンバック、ゴオマンス、ウウルマン、レエリ、ラムヴウル、マルキイヌ、マツソン、モリイズ、ナヴイル、ノル、ノオジェ、ぺレ、プレべエル、クノオ、サドゥル、タンギイ、テウアル、ユニツク、

<『文藝汎論』昭和10年(1935年)8月>

ランボオ像

* 詩「ランボオ
関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/2436-fbb29218
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック