大野英子さんにインタビュー(5)霧積山で見つかった二人の骨

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(5)霧積山で見つかった二人の骨

 兄ちゃん、どこかに生きていて呉れ、無事であれと祈りを込めた陰膳もいつか年を二度も越してしまいました。
 兄ちゃんを待ちこがれている家に届いたのは死体発見の知らせでした。

 兄の遺品 里まで運び教え呉れし谷川の水に ただ手を合わす

 増水した谷川の水が遺留品を麓まで流して呉れての発見でした。
 険しい霧積山の山中で父が探してきたのは、窪地に転がり込んだ二つの頭蓋骨とまっすぐな三本の骨でした。カサカサに乾いた骨は地面についていた所だけわずかな青苔がついていました。
 新聞は<目も当てられず腐乱した抱き合い心中死体発見、この非常時に何たる非国民>と書きたてました。
 もう一つの頭蓋骨の主は一八歳の電話の交換手をしていた同じ結社の娘さんと知れました。父は浅からぬ縁と山寺の墓地に埋めました。
「叢林治水大姉」
 父のつけた戒名です。原野を山林を水を治める、とても若い娘の戒名とは思えません。
 物言えぬ時代、父の精いっぱいの遺言ではなかったかと思えます。
「非国民の一家」といじめられて、学校でも、職場でも何も言えませんでした。
 これらはすべて戦争を作る為の準備だったのです。あのみじめな敗戦を迎える為の道だったのです。

(大野英子『続・九十歳のつぶやき』──兄ちゃんのこと)

<一緒に遺骨で見つかった18歳の娘さんは?>
林はる子さんという電話交換手をしていた人で、池袋に住んでいました。兄の部屋に来ているのを見たことがあります。『新世紀』同人の名簿には載っていません。
はる子さんは先妻の子だったので、遺体はこちらで埋葬するように親からまかされ、父が戒名をつけて葬ったのです。18歳の女の子の戒名「叢林治水大姉」には、父が言い残したかったことが込められていると思います。


<霧積山には行かれましたか?>
姪に一回連れていってもらいました、きれいな花が一面に咲いていました。その奥に温泉の宿があり(霧積温泉)、そこで休みました。

 兄逝きし霧積山にぬかずけば 蓮華升麻(れんげしょうま)の花俯きて咲く

<お兄様は緑川さんへ最後の手紙(昭和10年9月16日の消印)を軽井沢から出しています。軽井沢から霧積山に向ったようですね?>
(つづく)

*霧積温泉は明治後期、軽井沢が繁栄するようになるまで、有名な避暑地でした。西條八十の詩「帽子」に歌われ、のちに森村誠一の「人間の証明」の舞台に使われて有名になりました。

 帽子
       西條八十

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
……
(1922年(大正11年)2月「コドモノクニ」)

月見草
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