大野英子さんにインタビュー(1)池袋での生活

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大野英子

大野英子さんは自著『続・九十歳のつぶやき』で、兄・大野貞純さんが治安維持法の犠牲になった事実を書きました。
今また戦争に向っています。あのおぞましい治安維持法が首をもたげて来る時代。あんちゃんよ、私は叫び続けます。
おぞましき治安維持法かくあると 言いつくすまで吾れは死なじと


<お父様は児玉の寺の住職をなさっていたのですが、元の家は?>
父の父親もお寺の住職でした。4男だった父は廃寺の住職になったのです。昔、いくさで亡くなった人を弔って建てられた寺で、檀家はいなくて経済的にとても大変だったんです。
兄は中学校をおわると、池袋に出て雑役夫をしていました。貧しい給料なのに妹二人を引き取って養ってくれたのです。


<池袋での生活は?>
兄の仕事はゴミの清掃やコマ使いのような仕事でした。夜は夜学に通って勉強していました(慶応義塾商業学校)。夜学では寒い廊下で待っていた夜学生が授業が交代となって教室に入ると、小使いが石油ストーブの火を消して水まで打っていく、皆がしがみついた煙突は冷たい手でたちまち冷えていく、と言っていました。玄関脇の2帖の板の間が兄の部屋で、本を置いたり物を書いたりしていましたが、なるべく見ないようにしていました。家事一切は小学校高等科の姉がやり、私は何もしませんでした。小学4年〜6年の時期でした。

<池袋の小学校で「私らは教室の隅に集まってはロシヤに住む夢を語り合っていました。この地球のどこかには働けば皆が同じに飯の食える国があるそうな。それは夢のような理想郷でした」と書いてあるところは、当時の庶民がロシア革命を自分たちの希望の星として仰いでいたことがわかって感動したのですが?>
池袋は貧民街でしたが、大金持ちの住む地区もあって、貧富の格差が激しかったです。小学校でロシアの話をしてくれたのは西河しず江さんで、父親が小さな新聞社に勤めていました。
(つづく)
大野英子

紹介してくださった平さんと

雑誌

兄・大野貞純さんが遺された詩の雑誌など70冊余りを下さいました。当時活発だった詩運動の状況がわかる宝物です。
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