パリのダダ──怒れる若者たち(下)

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 パリにおけるダダは、多くの破壊と反抗の宣言を発表し、いたるところでスキャンダルーズな集会やデモンストレーションをひらく。タンプル区のオ・ズール街や、サン・ジュリアン・ル・ボーヴル教会の空地などでひらかれた集会が有名である。この頃のことはつぎのように歌われている。

  その怒りを 石膏の神神や銅像の影にむかって
  投げつけていた 新しいドン・キホーテたち
  われわれは 奇怪な美徳を罵倒するために
  あの時代が呼び集め よせ集めた一群だった
  われわれ自身の歌に 禁止宣言を投げつけて
  われわれは 呪いのストライキをくわだてた
  わたしはその物語をこまごまと語ることもできよう
  サン・ジュリアン・ル・ボーヴルの事やその喜劇などを
              (「ひとは遠くからやってくる」──『眼と記憶』)

 この詩にはつぎのような註がついている。
 「一九一九年─二〇年、雑誌『文学』の同人(アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー、ポール・エリュアール、および筆者)は、スイスからやってきたトリスタン・ツアラと合流した。ツアラは一九一六年来、ダダの運動を始めていた。そしてツアラをとおして、ドイツの二人のダダイストたち(アルプとマックス・エルンスト)がパリ・グループに加わり、おなじくアメリカから帰国したフランシス・ピカビアとその他(マルセル・デュシャン、ジョルジュ・リブモン・デセーニュ、ベルギー人クレマン・パンサエル、そしてなかば非公式にジャン・ポーランなど)が加わることになる。こうしてダダの運動はパリに根をおろした。この時期は一九二一年に終わると考えられる。意見の相違によってグループが分裂したためである。その最後の示威運動は、ある雨の降る日曜日の朝、サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会の隣りの空地で、三〇人ばかりの見物人を前にしておこなわれた。そこで、とくにこの註の筆者は、『図解小ラルース辞典』の数章を、まじめくさって読んだのだった。しかし、それはひどくもの悲しいものだった……」
(この項おわり)

<新日本新書『アラゴン』>

ポンヌフ
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