北条さなえさんと定型

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 北条さなえさんと定型
                         大島博光

 北条さなえさんのことといえば、わたしはまず、アントロジー「平和のうたごえ」第二集に収められている「戦にたおれた兵士のうた」という詩を思いだす。そうして、このアントロジーを批評したソヴエトのイ・ルボバ I.Lvova というひとが、北条さんのこの詩にふれて書いているのを思いだすのである。
 イ・ルボバは、一九五四年1月号の「ソヴエト文学」にかいた「平和とたたかいのうた」のなかで、こう書いている。
「日本の詩人たちの作品にあって、祖国をふみにじる圧制者たちにたいするたたかいは、平和のためのたたかい、新しい戦争準備にたいするたたかい、日本の再軍備に反対するたたかいと、ひきはなしがたく結びついている。こないだの戦争の惨禍は、まだひとびとの記憶のなかに生ま生ましい。このアントロジー(「平和のうたごえ」)に収められているたくさんの詩がそのことをあかしだてている。それらの詩のなかで、もっともすぐれたひとつは、女流詩人北条さなえの詩「戦にたおれた兵士のうた」である。夜な夜な、什れた兵士たちの亡霊が、まだ爆撃と戦火の痕をとどめている町々の通りをさまよっている、とこの詩はうたっている。

『誰が私を殺したのだ?』と、これらの亡霊たちはつぶやく。
 私もかっては生きていたものを
 若く 楽しく 美しい
 妻や子供があったのに
 だが今はひとくれの土 むなしい灰
 おお かっては生きていたものを
 そうして亡霊たちは、彼らを死へと追いやったものにたいする呪いのうたをうたう……」

 これが、イ・ルボバの批評である。わたしはこの批評がたいへん大切なものをふくんでいるように思う。それは、北条さんの詩をふくめて、日本の詩人たちの詩がどのようなものであり、どのようなものであるべきかを、端的に指摘している点である。それはわかりきっているようで、わかりきっていないのではないだろうか。
 北条さんのこの詩は、七行一節の定型をとっており、第三行が、最後の行で繰り返えされるが、このルフランはひじょうに効果的である。北条さんのヒューマニズムと、詩人のしらべとは、この形式のなかに結びつき、とけあっているのであろう。
 北条さんは、ほんとうにまれな定型の追求者のひとりであるが、いよいよこの道を追求しつづけてほしいとわたしはねがっている。こんにち詩は内容の点でも形式の点でも、国民大衆から遠ざかり、ますますアナーキーなものとなり、せまいセクト的なものとなっているが、そこから詩をひろい大道にひきもどすためには、どうしても定型をふたたび採用する必要がある、とわたしは考えているからである。

(『ポエトロア』9巻 現代女流詩人集 昭和33年9月)

雪

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