アラゴン──終(つい)の住みか・ヴァランヌ街と死

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 終(つい)の住みか・ヴァランヌ街と死
              
 「エルザを失って、軽業師(アクロバット)は平衡(パランシエ)をとる棒を失う」(ウルムセル)
 しかしアラゴンはエルザを失った絶望から立ち直って、一九七一年には『アンリ・マチス・小説(ロマン)』を刊行する。それはアラゴンにとって、一九四一年から一九六八年にかけて、マチスについて書いた文章を集大成することであり、刊行するに当って、さらにそこに細かな注やノートを書き加えるというたいへんな作業であった。
 さらに一九七四年には最後の小説『劇場/小説』を刊行する。これは散文と詩を交錯させる形式で書かれたもので、『死刑執行』(一九六五年)『ブランシュあるいは忘却』(一九六七年)とともに青春時代のヘルメティスム(難解性)への回帰を示す傑作といわれる。アラゴンはこうして未来を準備し、そこに自分の青春をむすびつける。それは単なる回帰や後退ではない。またかつてのシュールレアリストの友人たち、とりわけアンドレ・ブルドンへの感謝の表明でもない。それは現実と夢との和解であり、侵すべからざる想像の権利の宣言であり、表現における自由の再確認である。
 『劇場/小説』のフィナーレをなす「最後の言葉」はこうである。

   小鳥たちはみんなわたしの枝から飛び去ってしまった
   見捨てられた巣は乾いている
   頬の隅の涙のように
   画家も行ってしまった 画布(トワール)から
   蜘蛛の巣(トワール)の蜘蛛のように
   悔恨のように
   彼は何を描くのか何を描くのか 恐らく青春や
   しあわせな国々や人びとだろう
   その人びとのためにわたしは大変心配したので
   いつか彼らの日々はわたしの日々に似ている
   何を描くのか ものごとに新しい色を与える者は
   恐らくきみたちだろう われわれのように
   不幸を約束された子らよ 美しい子らよ
   きみらは指の間から快楽の季節が過ぎさるにまかせる
   きみらの顔の清らかな役割を受けもとうとして

   わたしのなかですべてが失われるように
   すべてが消えさる
   残酷な快楽のほかは
   彼が行ってしまったあとにもなお
                一九七三年四月八日日曜日

最終項へつづく)

<新日本新書『アラゴン』>
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