大野英子さん「兄を抹殺した治安維持法」

ここでは、「大野英子さん「兄を抹殺した治安維持法」」 に関する記事を紹介しています。
治安維持法の犠牲になった大野貞純さんに関する証言が治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟のサイトの【2009年活動および関連情報】に掲載されていました。ここに出てくるサークルが『新世紀』同人、高名な詩人が『新世紀』を主宰した竹内てるよさんです。

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私と戦争/大野英子さん(88)埼玉・本庄市/兄を抹殺した治安維持法

 戦前、治安維持法による弾圧で兄を亡くした大野英子さん(88)=埼玉県本庄市在住=が「小川町平和のための戦争展」で体験を語りました。
 大正生まれで終戦時は24歳です。私たちの年代は戦争一色でした。国がどうにかして庶民を戦争に駆り立てることに狂奔(きょうほん)していた時です。労働運動を取り締まった治安警察法、言論の自由をじゅうりんした治安維持法を悪法として身に染みて覚えています。庶民は食べ物もなく、日夜空襲にさらされても「こんな無謀な戦争はやめてくれ」と言えなかった。そうさせたのが治安維持法でした。

詩のサークル
 昭和12年(1937年)、私と姉は東京の池袋で19歳の兄に養われていました。兄は昼間勤めて夜学に行き、詩を書くサークルに通っていました。
 9月のある日、兄が勤めに出たきり戻って来ず、帰りをじっと待って5日ほど過ぎると、憲兵が土足で家に上がり込んできました。家捜しを始め、何も出てこないと本箱をけ倒して出て行きました。その間一切無言でした。兄はいくら待っても帰って来ませんでした。「あそこは非国民の家だ」とささやかれました。
 翌年、兄の骨があると教えられて父は群馬の霧積山に行きました。そこには兄と、兄と同じサークルの18歳の女の子の二つの骸骨(がいこつ)がありました。父は二人をねんごろに弔いました。たくさんの物を焼き捨て、二人は心中したと言い張りました。
 父はすべて知っていたのだと思います。大事な一人息子を殺されても、一族に累が及ばないようにしたのです。それが昭和の庶民の生き方でした。

反戦と疑われ
 それから50年もたったころ、ある高名な詩人が私を訪ね、当時のことを教えてくれました。兄の所属したサークルは若い労働者や貧しい学生が集まって詩を書き、励まし合った小さなサークルでした。サークルを襲ったのは弾圧などという生やさしいものではなく、人間のせん滅でした。この団体が戦争反対の何かを起こしそうだと思われたため、葬られてしまったのです。
 治安維持法で人知れず抹殺されてしまった人が大勢いると言われています。指導者や思想家だけでなく、まじめに底辺でいじらしく生きて、小さい妹を養っていたような者にさえ降りかかってきたんです。戦争を進めるために若い命をどんどん消していったのです。
 戦争の実態を語り継いでいかなければならないと思っています。戦争は体験で学習させてはならないのです。
(2009年9月25日,「赤旗」)

大野英子
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