講演「大島博光とガリ版刷りのフランスの起床ラッパ」 3)レジスタンス運動の歴史

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講演「大島博光とガリ版刷りのフランスの起床ラッパ」

3)レジスタンス運動の歴史


(西島文子さんが「フランスの歩み」を朗読したのを受けて)
お聞きいただきましたように、このアラゴンの詩は大変激しい内容を持っています。
これはドイツ軍に対して闘いを呼びかけると同時に、裏切りとか裏切り者ということばに象徴されるように──これはヴィシー政権のことを言っています──同じフランス人がフランス人にたいして敵対関係になっていることを表しています。そうなると単に祖国解放だけではすまない。それはどういう意味をもつのかが問題になります。なぜ裏切り者といっているのか簡単におさらいしたいと思います。
略年譜を見てください。

レジスタンス運動はかなり時間の経過がある。
1940年の後半からドイツ占領軍に対して闘いが始まり、
終わりは1944年8月のパリ解放、レジスタンス運動に区切りがつく。
アラゴンの『フランスの起床ラッパ』が出たのは1944年12月で、フランスでは第二次世界大戦が殆んど終戦になっていた。『フランスの起床ラッパ』が実際に書かれたのは1943年春頃から1944年秋にかけてパリ解放までで、雑誌などに発表された。

レジスタンス運動は大きく2つに分けて語られています。
1942年11月、連合軍が北アフリカ(モロッコ、アルジェリア)に上陸します。すると時を移さずにドイツ軍がフランスの全面占領に入ります。
それまではフランスの三分の二はドイツ軍の占領、残りの三分の一がヴィシー政府が名目的に支配していた。ドイツ軍がフランス全土を占領上におく。地中海を挟んで連合軍と対決する構図になる。このへんからレジスタンス運動がいっきに広まって攻勢をかける境目になる。それまでヴィシー政権の支配している三分の一では比較的レジスタンス運動はゆるやかだった。ここから状況が変わってくる。

もうひとつ、大きな変化は1842年4月にピエール・ラヴァルが首相に就任。それ以前はペタンという軍人が国家元首だった。ピエールは名だたる反共主義者で、演説で「私はナチスの勝利を望んでいる。なぜならドイツが存在しないとボルシェビキが至るところにはびこるからだ。」とあからさまにナチスの勝利を望んだ。そのあとフランスで極右団体、親独民兵団が1943年にできてナチスのために働く。

レジスタンス運動にとって大変重要なのは、1943年2月の強制労働福祉法がある。これはドイツがスターリングラードの戦いでソビエトに敗北し、大量の兵隊を失う。ドイツ人の若者はつぎつぎと亡くなっていく。ドイツの労働力をフランスからもっていく、強制労働をやらせる。これでフランスの20歳以上の若者を強制的にドイツへやる。フランスの若者はこれをのがれて山間部に逃れる。これがマキといわれ、強制労働を拒否した人たちがレジスタンス運動に参加した。レジスタンス運動はさらに強くなる。背景にレジスタンスの全国抵抗評議会が統一組織として結成され、だんだん闘いが根強い本格的なものへ成長していくわけです。
というわけでレジスタンス運動は1943年頃からが活発になり、激しくなっていく。これを背景にしてアラゴンは裏切り、裏切り者という言葉を使っているわけです。
(つづく)
川上勉


(2014年10月25日の講演より)

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