パリは飢える(上)

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 パリは飢える

 占領下のフランスにおいて、人びとはどのような生活をしていたのか。──日がたつにつれて、食糧や生活必需品は店頭から姿を消してゆく。すべてのものが──パンから肉にいたるまで、衣料から履物、石炭にいたるまで、配給切符によってしか買えなくなる。そのうえ、当局の指示のもとに「肉なし日」「油なし日」「酒なし日」などが設けられる。例えば、一週のうち、月曜、火曜、水曜が「肉なし日」で、火曜、木曜、土曜が「酒なし日」といった按配に。
 野菜類においても、平時にはまれにしか食べないようなかぶ、ぼたん、菊芋といったものまでたべる。つまり、野草から木の根まであさってたべたのである。
 フランスは飢え、フランスは寒さに顛える……
 ナチはあらゆるものを収奪した。小麦、葡萄酒、機械類から衣料、家畜にいたるまで、あらゆるものを徴発し、これを貨物列車に満載してドイツへ送った。一九四〇年−四一年には、小麦八〇万トン、オート麦六三万七千トン、大麦一万三千トンがドイツに送られた。土地を耕す人手が少なくなって、収穫はひじょうに減少したにもかかわらずドイツ軍は収穫の大部分を徴発しつづけた。一九四一年−四二年には四二万トンの小麦、一九四二年−四三年には六四万トンの小麦、一九四三年−四四年には六六万五千トンの小麦がドイツへ持ち去られた。
 フランス人のたべるパンは灰色になり、品質が落ちてゆく。そのうえ、パンは食糧の重要な部分であるのに、毎日の配給量は一人あたり二五〇グラムしかない。少しばかりの配給の食糧では生きてゆけないので、たちまち「闇市場」が出現する。たとえば、日曜日に都市の住民は田舎の農家のところに行って、配給の煙草と卵とを交換する。しかしそれは、大都会の少数の人びとが行うだけであって、闇市場の罪のない側面でしかない。闇市場の大部分は厚顔無恥の連中によって、悪どく行われた。かれらはドイツ軍将兵やヴィシー政権の役人とぐるになって、住民に配給する物資を多量に横流しして、公定値段より十倍も二十倍も高く売りつける。だから貧乏人は闇市場では買うことができない。逆に金持ちは、依然として豪勢な暮らしをつづけることができる。パリをはじめ、その他の大都市の若干のレストランは、ひとにぎりの対独協力者や闇商人どもに、栄養ゆたかなたっぷりとしたご馳走を公然と提供していた。
 皮革類も、ドイツ軍に徴発されて姿を消した。靴の真底は木になったので、ひとびとはしばしば足をくじいた。
 木綿(もめん)はアフリカやアジアから輸入されなかったので、それにまだナイロンが発明されていなかったので、衣類はいろいろな「代用品」によってつくられた。それらの代用品による織物のなかには、木の繊維や髪の毛までがまじっていた……それらの衣料は湿気をおびると、たちまち縮むので、しばしば滑椿な場面を引き起こした。
 このような欠乏、窮迫、貧困のなかにあって、エリュアールは「勇気」と題する力強い詩をかいて、パリ市民の「針のように鋭く剣のように強い」伝統的な精神を喚起し、たたかいに立ちあがるように勇気づけ、はげました。
つづく

<『レジスタンスと詩人たち』白石書店 1981年>

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